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== 概要 ==
かつて宇部市周辺においては、宇部時報社が発行する'''宇部時報'''や'''ウベニチ新聞'''のほか、最盛期には8紙の[[地方紙]]が発行されていた。その後合併や廃刊を経て、宇部時報とウベニチ新聞の2紙(いずれも[[夕刊紙]])のみが残っていたが、{{和暦|[[2004}}年]](平成16年)[[3月1日]]に両者が合併して宇部日報社となり、新たに'''宇部日報'''として発行されている。
 
現在は、[[山口県]][[宇部市]]と[[山陽小野田市]]、[[山口市]][[阿知須町|阿知須地区]]を中心に発行しており、宇部日報社の本社所在地である宇部市と山陽小野田市の2市および山口市阿知須地区を中心とした地域情報を掲載する。発行は夕刊のみで、日曜祝日が休刊日となっている。ラテ欄は夕方6時から深夜までのテレビ番組表を最終面に、翌朝から翌夕までのTVと発行日の夕方のラジオ表を中面掲載している。
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== 歴史 ==
* {{和暦|1912m}}[[1912年]](明治45年)[[7月15日]] - 宇部村(現・宇部市)で[[紀藤閑之介]]が'''宇部時報'''を創刊。当初は月刊紙で、今日の[[フリーペーパー]]のように、購読料・送料などは全て無料(紀藤の個人負担)だった。
* {{和暦|[[1914}}年]](大正3年) - 上郷与吉と脇順太が新聞発行に協力。
** [[9月25日]] - 紀藤閑之介が社主、脇順太が社長となって法人を設立し、有料紙となる。
* {{和暦|[[1920}}年]](大正9年) - 自社印刷を開始。
* {{和暦|1926t}}[[1926年]](大正15年)[[7月21日]] - 日刊紙に転向。
* {{和暦|[[1932}}年]](昭和7年) - 脇順太の死去に伴い、その夫人・脇タキが2代目社長に就任。当時、新聞社としては珍しい女性社長だった。
* {{和暦|[[1939}}年]](昭和14年) - 脇タキの死去に伴い、脇昂が3代目社長に就任。
* {{和暦|[[1941}}年]](昭和16年) - [[太平洋戦争]]に伴う新聞統廃合令で「関門日日」(後に「関門日報」「防長新聞」とも)に改名・統合される。
* {{和暦|[[1945}}年]](昭和20年)[[7月2日]] - 宇部市での空襲で社屋が被害にあう。
* {{和暦|[[1946}}年]](昭和21年)[[2月1日]] - 脇昂、藤井清によって宇部時報がタブロイド判で復刊。
* [[1949年]](昭和24年)
* {{和暦|1949}}
** [[5月]] - 脇昂が代表取締役となって株式会社化。紙面が現在の大きさとなる。
** [[10月15日]] - 宇部時報記者・編集局長の藤井清とその友人らが中心となり、「日本一小さな新聞」'''ウベニチ'''(後の'''ウベニチ新聞''')が週刊紙として創刊。紙名は「宇部の日曜新聞」という意味から付けられた。当時は、宇部市近郊において宇部時報や夕刊新宇部など8紙が発行されていたほか、本社所在地である宇部市の琴芝駅通り周辺には朝日新聞、毎日新聞、中国新聞、西日本新聞などの支局・通信部があり、激戦区となっていた。
** [[12月]] - ウベニチ新聞社が株式会社化し、その後ウベニチ新聞が日刊となる。
* [[1950年]](昭和25年)
* {{和暦|1950}}
** ウベニチ新聞社が小野田支局(当時の[[小野田市]]、現・[[山陽小野田市]])、床波支局([[宇部市]][[西岐波]])を開設。
** 藤井清の死去に伴い、藤井孝明が2代目ウベニチ新聞社社長に就任。
* {{和暦|[[1969}}年]](昭和44年) - 「愛の小箱運動」と題したチャリティーキャンペーンを開始。
* {{和暦|[[1980}}年]]昭和55年)(昭和50年)11月 - '''サンデーうべ'''創刊
* {{和暦|[[1993}}11年]](平成5年)11月 - '''サンデー小野田'''創刊。
* {{和暦|[[2004}}年]](平成16年)[[3月1日]] - 宇部時報社とウベニチ新聞社が合併(手続き上の存続会社はウベニチ新聞社)。社名を'''宇部日報社'''に改称し'''宇部日報'''を発刊。
 
== 事業拠点 ==