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{{複数の問題|ソートキー=人1013年没
| 出典の明記 = 2012年5月
| 参照方法 = 2012年5月
| 独自研究 = 2012年5月
}}
'''ヒシャーム2世'''([[975年]] - [[1013年]]、)は、[[後ウマイヤ朝]]の第3代[[カリフ]](在位<ref name="佐藤健太郎_p91">[[#佐藤健太郎 (2008)|佐藤健太郎 (2008)]]、p.91</ref>:[[976年]] - [[1009年]]。[[1010年]] - 1013年)。
 
父は第2代カリフの[[ハカム2世]]<ref name="私市2002_p222">[[#私市 (2002)|私市 (2002)]]、p.222</ref>。生母は[[バスク人]]のスブフ<ref name="私市2002_p222"/>。
父は第2代カリフの[[ハカム2世]]<ref name="私市2002_p222">[[#私市 (2002)|私市 (2002)]]、p.222</ref>。生母は[[バスク人]]のスブフ<ref name="私市2002_p222"/>。976年に父ハカム2世が死去したためカリフ位を継いだがわずか11歳のため<ref name="佐藤健太郎_p91"/>、ハカム2世の大[[カーディ]]であったイブン・アビー・アーミル(後の981年に[[アル・マンスール・ビッ・ラーヒ]](「勝利者」)の称号を名乗った<ref name="佐藤健太郎_p91"/>。)が後見人として統治した<ref name="私市2002_p222"/>。[[978年]]にはハージブ(侍従)に就任した<ref name="佐藤健太郎_p91"/>。アル・マンスール・ビッ・ラーヒは生母のスブフの寵愛を得て専権を握り、最初はヒシャームの補佐として政治を執った<ref name="私市2002_p222"/>。しかし[[981年]]になると行政府を[[コルドバ]]の東に造営した[[アルマディーナ・アッザーヒラ]](「光輝の都市」)に遷し、アル・マンスール自らの名で統治した<ref name="私市2002_p222"/>。このため、後ウマイヤ朝のカリフは宗教的な役割のみになってしまった<ref name="私市2002_p222"/>。アル・マンスールは[[バルセロナ]]に進出し、[[レオン王国]]を服属させ、[[997年]]にはサンティアゴ・デ・コンポステラの聖ヤコブ教会を襲撃して略奪と破壊を欲しいままにした<ref name="私市2002_p222"/>。
 
== 略歴 ==
アル・マンスールが[[1002年]]に死亡すると、息子の[[アブド・アルマリク (後ウマイヤ朝)|アブド・アルマリク]]が侍従として実権を握った<ref name="私市2002_p222"/>。アルマリクも父と同様に専権を握って王朝を統治したが、[[1008年]]に死去すると実力者が欠けた後ウマイヤ朝では内紛が勃発し、6人ものウマイヤ一族がカリフに即位する大混乱状態となって急速に衰退した<ref name="私市2002_pp222-223">[[#私市 (2002)|私市 (2002)]]、pp.222-223</ref>。
父は第2代カリフの[[ハカム2世]]<ref name="私市2002_p222">[[#私市 (2002)|私市 (2002)]]、p.222</ref>。生母は[[バスク人]]のスブフ<ref name="私市2002_p222"/>。976年に父ハカム2世が死去したためカリフ位を継いだがわずか11歳のため<ref name="佐藤健太郎_p91"/>、ハカム2世の大[[カーディ]]であったイブン・アビー・アーミル(後の981年に[[アル・マンスール・ビッ・ラーヒ]](「勝利者」)の称号を名乗った<ref name="佐藤健太郎_p91"/>。)が後見人として統治したなり<ref name="私市2002_p222"/>[[978年]]にはハージブ(侍従)の地位に就任した<ref name="佐藤健太郎_p91"/>。スブフから寵愛されたアル・マンスール・ビッ・ラーヒは生母のスブフの寵愛を得て専権を握り、最初はヒシャームの補佐として政治を執った<ref name="私市2002_p222"/>。しかし[[981年]]になると行政府を[[コルドバ]]の東に造営した[[アルマディーナ・アッザーヒラ]](「光輝の都市」)に遷し、アル・マンスール自らの名で統治した<ref name="私市2002_p222"/>。このため、後ウマイヤ朝のカリフは宗教的な役割を有するだけ存在になってしまった<ref name="私市2002_p222"/>。アル・マンスールは[[バルセロナ]]に軍を出し、めて[[レオン王国]]を服属させ、[[997年]]にはサンティアゴ・デ・コンポステラの聖ヤコブ教会を襲撃して略奪と破壊を欲しいままにし行った<ref name="私市2002_p222"/>。
 
アル・マンスールが[[1002年]]に死亡すると、アル・マンスールの息子の[[アブド・アルマリク (後ウマイヤ朝)|アブド・アルマリク]]が侍従として実権を握っハージブの地位に就いた<ref name="私市2002_p222"/>。アルマリクも父と同様に専じく実質的な最高を握っ力者として王朝を統治したが、[[1008年]]にアルマリクが死去すると実力者た後ウマイヤ朝では内紛が勃発し、6人ものウマイヤ一族がカリフに即位する大混乱状態となって急速に衰退した<ref name="私市2002_pp222-223">[[#私市 (2002)|私市 (2002)]]、pp.222-223</ref>。
1013年に39歳で死去<ref name="佐藤健太郎_p97">[[#佐藤健太郎 (2008)|佐藤健太郎 (2008)]]、p.97</ref>。
 
ヒシャーム2世は、1013年に39歳で死去した<ref name="佐藤健太郎_p97">[[#佐藤健太郎 (2008)|佐藤健太郎 (2008)]]、p.97</ref>。
 
== 脚注 ==
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* {{Cite book|和書|author =私市正年|editor =佐藤次高編|title =西アジア史 1:アラブ|year = 2002|publisher = [[山川出版社]] |series=新版 世界各国史|volume=第8巻|pages=186-255|chapter=第3章 西アラブ世界の展開|isbn = 4-634-41380-9|ref=私市 (2002)}}
* {{Cite book|和書|author =佐藤健太郎|editor =関哲行、立石博高、中塚次郎編|title =スペイン史 1:古代 – 近世|year = 2008|publisher = [[山川出版社]] |series=世界歴史大系|pages=70-135|chapter=第3章 イスラーム期のスペイン|isbn = 978-4-634-46204-5|ref=佐藤健太郎 (2008)}}
<!--* [[佐藤次高]]『西アジア史』1巻([[山川出版社]])-->
 
{{先代次代|[[後ウマイヤ朝]]|976年 - 1009年|[[ハカム2世]]|[[ムハンマド2世 (後ウマイヤ朝)|ムハンマド2世]]}}