「大塩平八郎の乱」の版間の差分

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==事後==
大塩の挙兵は半日で鎮圧され失敗に終わったものの、幕府の役人だった大塩が、大坂という重要な直轄地で反乱を起こしたことは、幕府・諸藩の要人たちに、またそして幕政に不満を持つ民衆たちに大きな衝撃を与えた。 この事件を境に全国で同様の乱が頻発し、その首謀者たちは「大塩門弟」「大塩残党」などと称していた。また、最期の状況から「大塩はまだ生きている」、「海外に逃亡した」という風説が流れた。身の危険を案じた大坂町奉行が市中巡察を中止したり、また同年[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[モリソン号]]が江戸湾に侵入していたことと絡めて「大塩と黒船が江戸を襲撃する」という説まで流れた。これに、大塩一党の(遺体の)磔刑をいまだ行っていなかったことが噂に拍車をかけた。
 
この事件を境に[[生田万の乱]]を始め全国で同様の乱が頻発し、その首謀者たちは「大塩門弟」「大塩残党」などと称した。また、最期の状況から「大塩はまだ生きている」「海外に逃亡した」という風説が流れた。身の危険を案じた大坂町奉行が市中巡察を中止したり、また同年[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[モリソン号]]が日本沿岸に侵入していたことと絡めて「大塩と黒船が江戸を襲撃する」という説まで流れた。これに、大塩一党の(遺体の)磔刑をいまだ行っていなかったことが噂に拍車をかけた。
幕府としても、叛徒が元役人で武士でもあり、遺体の状況をも鑑みた上での処置であったと考えられるが、そのため余計に生存説が拡大してしまった。仕方なく幕府は、事件1年後に磔を行うが、それは塩漬けにされて人相も明らかでない遺体が十数体磔にされる、という異様な風景で、当然大塩本人の遺体の真贋判断などできるわけではなく、さらに生存説に拍車をかけることとなってしまった。<ref>漫画作品ではあるが、[[みなもと太郎]]の『[[風雲児たち]]』では、大塩はあえてそうなる事を意図し、火薬での自爆という最期を遂げたと描写された。</ref>
 
幕府としても、叛徒が元役人で武士でもあり、遺体の状況をも鑑みた上での処置であったと考えられるが、そのため余計に生存説が拡大してしまった。仕方なく幕府は、事件1年後に磔を行うが、それは塩漬けにされて人相も明らかでない遺体が十数体磔にされる、という異様な風景で、技術も進んでいなかった当然大塩本人の遺体の真贋判断などできるわけではなく、さらに生存説に拍車をかけることとなってしまった。<ref>漫画作品ではあるが、[[みなもと太郎]]の『[[風雲児たち]]』では、大塩はあえてそうなる事を意図し、火薬での自爆という最期を遂げたと描写された。</ref>
 
大塩の発した[[檄文]]は幕府に反感を持つ庶民の手で、取締りをかいくぐって筆写により全国に伝えられ、[[越後国]]では[[国学]]者の[[生田万]]が、[[柏崎]]の代官所を襲撃する乱を起している。さらにその檄文は[[寺子屋]]の習字の手本にされたほどだった。
 
また、京都が大坂に近いということで、[[2月25日 (旧暦)|2月25日]]に[[京都所司代]][[松平信順]]から[[光格天皇|光格上皇]]および[[仁孝天皇]]に対して事件の報告が行われ、以後大塩の死亡までたびたび捜索の状況が幕府から朝廷に報告された。一方、朝廷からは諸社に対して豊作祈願の祈祷が命じられ、また朝廷の命により幕府がその費用を捻出している。[[尊号一件]]などで[[大政委任]]を盾に朝廷に対して強硬な姿勢を示していた幕府が、朝廷の命令をそのまま認めたことに、幕末に向かい、幕府の権威が下がり、朝廷の権威が上昇していく兆し見ることが出来る。
 
== 備考 ==