「ジェリー・マリガン」の版間の差分

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| Occupation =
| Years_active =
| Label = [[パシフィック・ジャズ・レコード]]<br />[[プレスティッジ・レコード]]<br />[[キャピトル・レコード]]<br />[[A&Mレコード]]
| Associated_acts = [[ギル・エヴァンス]], [[マイルス・デイヴィス]]
| URL =
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その経験を活かし、1940年代末には、後にアルバム「クールの誕生 (''Birth of Cool'') 」として録音がまとめられた[[マイルス・デイヴィス]]のビッグ・コンボに参加、バリトンサックスでの演奏の他、「ジェル (''Jeru'') 」「ミロのヴィーナス (''Venus De Milo'') 」などの作曲などを担当する。そのほか、モダン・ジャズ・ビッグバンドの代表的存在であるスタン・ケントン・オーケストラにも編曲を提供した。
 
[[1952年]]、[[カリフォルニア州]]に移り、[[トランペット]]の[[チェット・ベイカー]]らとピアノレスカルテットを結成。わずか1年間の活動であったが、リズムセクションに[[鍵盤楽器]]が必須とされていたジャズの世界に於いては画期的な出来事であり、この動きが[[アメリカ西海岸]]における[[ウエストコースト・ジャズ]]の顕在化につながっていくことになる。マリガン・カルテットのデビュー・アルバムである「Gerry Mulligan Quartet」は、「バーニーズ・チューン」などの名演が収められ、大きなヒットとなった。マリガンはウエストコースト・ジャズの中心的人物として西海岸に拠点を置きつつ、[[ベン・ウェブスター]]、[[デイヴ・ブルーベック]]、[[セロニアス・モンク]]、[[ズート・シムズ]]らと交流を深めていった。<br />
 
1956年、ニューヨークに戻り、セロニアス・モンク等と共演。<br />
1956年、ニューヨークに戻り、セロニアス・モンク等と共演。1958年には、映画『[[私は死にたくない]]』に出演している<br />
 
[[1963年]]には[[アート・ファーマー]]らをメンバーに招き、リーダー作「'''ナイト・ライツ''' (''Night Lights'') 」を発表。1950年代のプログレッシヴな作品とは異なった静謐なスタイルが貫かれており、彼の代表作となる。ちなみにタイトル曲では、マリガンは[[ピアノ]]を演奏している(後年、CDのボーナストラックとして1965年にマリガンがクラリネットを演奏したテイクも収録されている)。<br />
 
[[1963年]]には[[アート・ファーマー]]らをメンバーに招き、リーダー作「'''ナイト・ライツ''' (''Night Lights'') 」を発表。1950年代のプログレッシヴな作品とは異なった静謐なスタイルが貫かれており、彼の代表作となる。ちなみにタイトル曲では、マリガンは[[ピアノ]]を演奏している(後年、CDのボーナストラックとして1965年にマリガンがクラリネットを演奏したテイクも収録されている)。<br />
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1980年代に入ると[[フュージョン (音楽)|フュージョン]]色の強い音楽性を指向するようになり、「リトル・ビッグホーン (''Little Big Horn'') 」などのフュージョンアルバムを発表するようになる。この頃に世界ツアーも行っている。
 
他に共演者は[[ジーン・クルーパ]]、[[チコ・ハミルトン]]、[[ボブ・ブルックマイヤー]]、[[ジーン・クイル]]等が挙げられる。<br />
[[1996年]][[1月20日]]、[[膝]]の外傷が元で[[コネチカット州]]ダリエンにて死去。68歳。<br />
 
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[[1996年]][[1月20日]]、[[膝]]の外傷が元で[[コネチカット州]]ダリエンにて死去。68歳。<br />
レーベルは[[プレスティッジ・レコード|プレスティッジ]]、[[キャピトル・レコード|キャピトル]]、A&Mに録音が残る。<br />
 
他に共演者は[[ジーン・クルーパ]]、[[チコ・ハミルトン]]、[[ボブ・ブルックマイヤー]]、[[ジーン・クイル]]等が挙げられる。<br />
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=== 参考文献 ===
*『ジャズ管楽器 : バリトン・サックス/ソプラノ・サックス/クラリネット/フルート/トロンボーン他』 ジャズ批評編集部編、松坂〈ジャズ批評ブックス〉、2002年。ISBN 4-915557-12-X。<br />
 
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