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'''青山 忠成'''(あおやま ただなり、[[天文 (元号)|天文]]20年[[8月6日 (旧暦)|8月6日]]([[1551年]][[9月6日]]) - [[慶長]]18年[[2月20日 (旧暦)|2月20日]]([[1613年]][[4月10日]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]初期にかけての[[武将]]、[[大名]]。[[江戸幕府]][[町奉行]]、[[老中]]。[[常陸国]][[江戸崎藩]]初代藩主。青山家宗家初代。
 
[[青山忠門]]の長男。母は卯野某の娘。正室は[[天方通興]]の娘。子に[[青山忠次|忠次]](長男)、[[青山忠俊|忠俊]](次男)、[[朝比奈泰重]](3男)、[[青山幸成|幸成]](4男)、[[天方通直]](5男、天方通興養子)、娘([[川口近次]]室)がいる。官位は[[従五位|従五位下]]、[[常陸国|常陸]]、[[播磨国|播磨]]守。
 
== 経歴 ==
青山氏は[[三河国]][[額田郡]]百々村(現在の[[愛知県]][[岡崎市]])出身の国人で、忠成の父・忠門([[青山忠世]]の子)が[[松平広忠]]・[[徳川家康]]に仕えたことから記録に残る。忠成は若年期から家康に近侍していたが、[[元亀]]2年([[1572年]])、父が[[武田信玄]]との戦いで討死したために家督を継いだ。
 
家康の信任は厚く、[[天正]]13年([[1585年]])には家康の3男[[徳川秀忠|秀忠]]の傅役に命じられた。天正16年([[1588年]])には秀忠に従って上洛、[[豊臣秀吉]]によって従五位下[[常陸国司|常陸介]]に叙任されている。さらに天正18年([[1590年]])、家康が[[関東]]に移封されると江戸町奉行に任命され、5,000石([[文禄]]元年([[1593年]])には2,000石加増)の領地を与えられた。また、[[原宿]]村を中心に[[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]の一部から上[[渋谷]]村にかけての広い屋敷地を賜っており、現在の[[東京都]][[青山]]の地名は、屋敷地の一部であったことが由来といわれている。なお一時期、青山氏が改易された際に屋敷地も没収され、広大な土地には[[毛利氏]]の別邸など大名屋敷が林立することとなったが、後に大名として復帰した際にも以前ほどではないものの小大名とは思えないほど広大な敷地を有していた。
 
慶長5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]においては秀忠の軍に従軍し遅参したものの、翌慶長6年([[1601年]])に常陸江戸崎1万5,000石の所領を得ている。さらに江戸奉行・関東総奉行を兼任し、江戸開府後も[[本多正信]]・[[内藤清成]]と共に老中として幕政において重きをなした。慶長11年([[1606年]])、内藤と共に一時蟄居を命ぜられているがすぐに赦免されている。同年1万石を加増され、所領は2万5,000石となった。