「オビエド」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Luckas-bot (会話 | 投稿記録)
m r2.7.1) (ロボットによる 追加: kk:Овьедо
編集の要約なし
48行目:
== 歴史 ==
[[ファイル:Catedral de Oviedo 3.jpg|thumb|left|サン・サルバドール大聖堂]]
[[711年]](または[[712年]])、{{仮リンク|グアダレーテの戦い|en|Battle of Guadalete}}でアストゥリアスはイスラム教徒に征服された。[[722年]]の{{仮リンク|コパドンガの戦い|en|Battle of Covadonga}}で[[アストゥリアス王国]]の伝説的な王[[ペラーヨ]]がアストゥリアスを奪回し、[[カンガス・デ・オニス]]にキリスト教徒の拠点を確保した(最初の[[レコンキスタ]])。
8世紀始め、アストゥリアスはイスラム教徒に征服されたが、すぐに伝説的な王[[ペラーヨ]]によってキリスト教徒に奪回された。[[761年]]ごろ、修道院長マクシムスはオビエドに修道院を建てた。8世紀末の[[アストゥリアス王国|アストゥリアス王]][[アルフォンソ2世 (アストゥリアス王)|アルフォンソ2世]]は[[西ゴート王国]]の後継を自負し、オビエドを都として[[アーヘン]]や[[トレド]]を模した宮廷・教会組織を作り、司教座を創建し、都を教会や修道院で飾った。
 
8世紀始め、アストゥリアスはイスラム教徒に征服されたが、すぐに伝説的な王[[ペラーヨ]]によってキリスト教徒に奪回された。[[761年]]ごろ、修道院長マクシムスはオビエドに修道院を建てた。8世紀末の[[アストゥリアス王国|アストゥリアス王]][[{{仮リンク|アルフォンソ2世 (アストゥリアス王)|en|Alfonso II de Asturias|label=アルフォンソ2世]]}}は[[西ゴート王国]]の後継を自負し、オビエドを都として[[アーヘン]]や[[トレド]]を模した宮廷・教会組織を作り、司教座を創建し、都を教会や修道院で飾った。
 
[[914年]]、アストゥリアス王国は都を[[レオン (スペイン)|レオン]]へ遷した。これ以降は、[[レオン王国]]と呼ばれ、のちにアストゥリアスは[[カスティーリャ王国]]、スペイン王国の一部となった。
 
近代に入ると、ナポレオンの侵入によって一時荒廃したが、近隣の地下資源を背景に工業都市として発展を遂げた。炭鉱労働者などが多いこともあり、20世紀にはいると労働運動が盛んになった。[[1934年]]には、大規模な鉱山労働者の蜂起({{仮リンク|アストゥリアス革命:[[:|es:|Revolución de Asturias de 1934|es]]}})が起こったが、のちに独裁者となる[[フランシスコ・フランコ|フランコ]]指揮の軍に鎮圧された。[[1936年]]に勃発した[[スペイン内戦]]においては、北部の重要な工業都市であったことから、反乱軍がこの都市の確保を重視し、早期に制圧された。その後、政府側との激しい攻防が展開されたため、再び街は荒廃した。
 
== 文化 ==