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== 歴史 ==
[[ファイル:Catedral de Oviedo 3.jpg|thumb|left|サン・サルバドール大聖堂]]
[[711年]](または[[712年]])、{{仮リンク|グアダレーテの戦い|en|Battle of Guadalete}}でアストゥリアスはイスラム教徒に征服された。[[722年]]の{{仮リンク|コパドンガの戦い|en|Battle of Covadonga}}で[[アストゥリアス王国]]の伝説的な王[[ペラーヨ]]がアストゥリアスを奪回し、[[カンガス・デ・オニス]]にキリスト教徒の拠点を確保した(最初の[[レコンキスタ]])。
8世紀始め、アストゥリアスはイスラム教徒に征服されたが、すぐに伝説的な王[[ペラーヨ]]によってキリスト教徒に奪回された。[[761年]]ごろ、修道院長マクシムスはオビエドに修道院を建てた。8世紀末の[[アストゥリアス王国|アストゥリアス王]][[アルフォンソ2世 (アストゥリアス王)|アルフォンソ2世]]は[[西ゴート王国]]の後継を自負し、オビエドを都として[[アーヘン]]や[[トレド]]を模した宮廷・教会組織を作り、司教座を創建し、都を教会や修道院で飾った。▼
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[[914年]]、アストゥリアス王国は都を[[レオン (スペイン)|レオン]]へ遷した。これ以降は、[[レオン王国]]と呼ばれ、のちにアストゥリアスは[[カスティーリャ王国]]、スペイン王国の一部となった。
近代に入ると、ナポレオンの侵入によって一時荒廃したが、近隣の地下資源を背景に工業都市として発展を遂げた。炭鉱労働者などが多いこともあり、20世紀にはいると労働運動が盛んになった。[[1934年]]には、大規模な鉱山労働者の蜂起({{仮リンク|アストゥリアス革命
== 文化 ==
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