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元来、琉球士族の間で密かに伝えられてきた唐手であるが、[[明治]]12年([[1879年]])、[[沖縄県の歴史#琉球処分|琉球処分]]により琉球王国が滅亡すると、唐手も失伝の危機を迎えた。唐手の担い手であった琉球士族は、一部の有禄士族を除いて瞬く間に没落し、唐手の修練どころではなくなった。不平士族の中には[[清]]国へ逃れ([[脱清]])、独立運動を展開する者もいた。開化党(革新派)と頑固党(保守派)が激しく対立して、士族階層は動揺した。
 
このような危機的状況から唐手を救ったのが、[[糸洲安恒]]である。糸洲の尽力によって、唐手はまず明治34年([[1901年]])に首里尋常小学校で、明治38年([[1905年]])には沖縄県中学校(現・[[首里高等学校]])および沖縄県[[師範学校]]の体育科に採用された。その際、読み方も「トゥーディー」または「カラーティー」から「からて」に改められた。唐手は糸洲によって一般に公開され、また武術から体育的性格へと変化することによって、生き延びたのである。糸洲の改革の情熱は、型の創作や改良にも及んだ。生徒たちが学習しやすいようにと[[ピンアン]](平安)の型を新たに創作し、既存の型からは急所攻撃や関節折りなど危険な技が取り除かれた。
 
このような動きとは別に、中国へ渡った沖縄県人の中には、現地で唐手道場を開いたり、また現地で中国拳法を習得して、これを持ち帰る者もいた。[[湖城以正]]、[[東恩納寛量]]、上地完文などがそうである。もっとも、日中国交回復後、日本から何度も現地へ調査団が派遣されたが源流武術が特定できず、また中国武術についての書籍や動画が出回るにつれ、彼らが伝えた武術と中国武術とはあまり似ていないという事実が知られるようになると、近年では研究者の間で彼らの伝系を疑問視する声も出てきている<ref>渡久地雅昭「空手の歴史、その信憑性を考察する」『JKFan』2006年10、11、12月号、2007年5、7月号、チャンプ</ref>。