「皿鉢料理」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Yonosisa (会話 | 投稿記録)
Yonosisa (会話) による ID:42705734 の版を取り消し
31行目:
 
明治期以降から昭和にかけて、皿鉢料理は土佐の郷土料理として庶民の中に深く定着していった。同じ行事食ながら形式を重んじる[[本膳料理]]ではなく、皿鉢料理が受け継がれてきた理由として、共に料理を作る事で互いへの慰労を示し、一つの皿の料理を分け合って食べる事により連帯意識や仲間意識が養われるなど、地域や村落が共同生活を営む上でも極めて有用な「晴れ食」であった事などが挙げられている。
 
一方、[[長野県]][[佐久市]]には[[江戸時代]]初期の[[1648年]](慶安元年)10月19日晩に記された文献に「皿鉢料理」の記載がある。
[[信濃国|信州]][[佐久郡]][[岩村田宿]]の[[割元]]職の[[篠澤佐五右衛門良重]]が[[小諸城]]主[[青山宗俊]]に[[皿鉢料理]]等を献上している。
この文献には、「皿鉢料理として、車海老、のしもみ、水貝、きんかんを提供した」ことが記されている。
なお、この文献は、[[佐久市立望月歴史民俗資料館]]にて一般公開されている。
 
== 皿鉢料理の基本 ==