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外交官になって最初の頃は[[モンテネグロ]]、[[オスマン帝国]]、[[オランダ]]、[[イギリス]]、[[チュニジア]]などに赴任し、1882年に外務省[[レバント]]局の助教授としてパリに戻ってきた。1890年には再び外交官として[[ロンドン]]に赴き、イギリスの[[植民地]]との紛争を仲裁した。彼は外交官としての仕事に限界を感じ、1895年に議会に転身した。1904年には[[元老院 (フランス)|元老院]]議員となり、1924年まで務めた。
 
外交官や政治家として、彼は植民地の問題に当たり、一貫して[[フランス第三共和政]]の植民地政策に反対した。彼はフランス議会からの植民地議席の削減を支持し、同化された植民地を保護国とする政策を推進した。特に[[マダガスカル]]での植民地法の強制や列強による[[中国]]の分割には強く反対した。ただし国内問題に関しては、今日で言うところの「[[モラル・パニック|道徳に対する暴行]]」という態度をとった。
 
彼はとにかく国際関係の改善に身を捧げ、1900年には常設仲裁裁判所の裁判官となった。彼は1898年と1907年の[[ハーグ陸戦条約]]のフランス側の代表となり[[ヨーロッパ連合]]の展望を描いた。
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[[Category:フランスの政治家]]
[[Category:フランスの外交官]]
[[Category:フランスの著作家]]
[[Category:ノーベル平和賞受賞者]]
[[Category:サルト県出身の人物]]