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コフトラ=ヤルヴェの歴史はエストニアの主要な鉱物である[[オイルシェール]](油頁岩)と密接に結びついている。
 
現在のコフトラ=ヤルヴェには高中世(11世紀から13世紀)から村落がいくぽつとあった。デンマークの文献には1241年にヤルヴェ村とククルセ村がそれぞれ ''Jeruius'' ''Kukarus'' として、1420年にソンパ村が ''Soenpe'' としてそれぞれ初めて登場する。
 
[[File:Kohtla-Järve 2007 14.jpg|200px|left|thumb|オイルシェール採掘業の始まりを記念するモニュメント]]
古来より住民たちはオイルシェールの可燃性を認識していたが、それを産業にしたのは20世紀に入って始めのことであった。1916年にオイルシェールが燃料のみならず化学工業の原料としても使えることが研究によって判明すると、ヤルヴェ村近郊で採掘が始まった。1919年に国営オイルシェール産業株式会社が設立されると立て坑や露天掘りなども導入され、事業は拡大していった。1924年にオイルシェールの抽出工場がコフトラ駅近くに建設された際、近くの村落はコフトラ=ヤルヴェと名付けられ、発展していった。
 
[[第二次世界大戦]]中、エストニアのオイルシェール産業は特需で成長した。エストニアを占領したドイツ軍はこの燃料に着目したが、全力を挙げて本格的な採掘することはできなかった。
 
[[File:Tammiku asum 2 2008.jpg|200px|left|thumb|アフトメ地区の住宅地]]
戦後、新たにエストニアを支配した[[ソビエト連邦]]はオイルシェール産業を急成長させるため絶えずその規模を拡大するよう命じた。採掘地帯で最大の村落であったコフトラ=ヤルヴェは1946年6月15日にとなっ制施行された。それから20年間、コフトラ=ヤルヴェは近隣の村落と相次いで合併を繰り返し、現在の奇妙な境界線ができあがった。人口は労働者を主として増加し、1980年に9万人を突破した。
 
ソ連が崩壊し、エストニアが独立を取り戻した1991年に[[ユフヴィ]]、キヴィウリ、プッシの各地区がそれぞれ別の町として分したため、コフトラ=ヤルヴェの面積は縮小した。オイルシェールの採掘・抽出量も1990年代を境に急激に減少し、県内の高い失業率も相俟って多くの市民が首都[[タリン]]や[[ロシア]]に移住した。
 
== 地理 ==