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東村愛 (会話 | 投稿記録)
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[[画像:Ilja Jefimowitsch Repin 007.jpg|thumb|right|180px|アントン・ルービンシュタイン]]
{{クラシック音楽}}
'''アントン・グリゴリエヴィチ・ルビンシテイン'''({{lang-ru|Анто́н Григо́рьевич Рубинште́йн}}, Anton Grigoryevich Rubinstein, [[1829年]][[11月28日]] - [[1894年]][[11月20日]])[[ロシア]]の[[作曲家]]、[[ピアニスト]]、[[指揮者]]である。現在の[[モルドバ共和国]]に属する[[ポドリスク]]地方ヴィフヴァチネツ({{lang|ru|Вихватинец(Выхватинец)}}, 現[[ルブニツァ]] [[:ro:Râbniţa|Râbniţa]] 近郊)に生まれ、[[ペテルブルク]]近郊の[[ペテルゴフ]]に没した。姓は日本では[[ドイツ語]]風に“ルービンシュタイン”と表記されることも多い。
 
== 略歴 ==
ロシア領[[ポドリスク]]地方ヴィフヴァチネツ(({{lang|ru|Вихватинец(Выхватинец)}}現在の[[モルドバ共和国]][[ルブニツァ]] [[:ro:Râbniţa|Râbniţa]])近郊に[[アシュケナジム|ユダヤ系・ロシア人]]の家庭に生まれる。
[[ロシア]]人ピアニストとしてはじめて世界的名声を博し、ロシア・ピアノ流派の祖となった。また、[[1862年]]にロシア最初の専門的な音楽教育機関である[[サンクトペテルブルク音楽院]]を創設し、[[1859年]]には[[ロシア音楽協会]]を創設した。それまでオペラ中心であったロシアの音楽活動に交響曲や管弦楽などを持ち込ませるなど、ヨーロッパの音楽的伝統をロシアに根付かせるために計り知れぬ貢献をした。
 
[[ロシア]]人ピアニストとしてはじめて世界的名声を博し、ロシア・ピアノ流派の祖となった。また、[[1862年]]にロシア最初の専門的な音楽教育機関である[[サンクトペテルブルク音楽院]]を創設し、[[1859年]]には[[ロシア音楽協会]]を創設した。それまでオペラ中心であったロシアの音楽活動に交響曲や管弦楽などを持ち込ませるなど、ヨーロッパの音楽的伝統をロシアに根付かせるために計り知れぬ貢献をした。
 
弟の[[ニコライ・ルビンシテイン|ニコライ]]も著名なピアニストである。ポーランド出身でアメリカで活躍した20世紀のピアニスト、[[アルトゥール・ルービンシュタイン]]と血縁関係はない。
 
ルビンシテインは自身のピアノ演奏を録音に残さなかったものの、彼自身の肉声は蓄音機に録音されており、その現存するシリンダーレコードからは、親友の[[ピョートル・チャイコフスキー]]の肉声も同時に聴くことが出来る。
 
晩年に[[ペテルブルク]]近郊の[[ペテルゴフ]]に没した。 
 
== 作品 ==