「ユグルタ戦争」の版間の差分

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ヌミディアは、共和政ローマの長らくの宿敵[[カルタゴ]]に近いアフリカ北部、現在の[[アルジェリア]]に位置していた王国であった。[[第二次ポエニ戦争]]で[[スキピオ・アフリカヌス]]に協力した[[マシニッサ]]により統一され、その後、[[ミキプサ]]が王位を継いでいた。紀元前118年にミキプサが死去した後、ヌミディアには3人の有力な後継者が存在した。ミキプサの2人の息子であるアドヘルバル[[:en:Adherbal|(en)]]、ヒエンプサル[[:en:Hiempsal I|(en)]]、そしてミキプサの甥で養子となっていた[[ユグルタ]]である。ミキプサは3人が協力してヌミディアを統治することを望んだが、ユグルタはヌミディア単独の王位を望んだことから、殺人・賄賂・裏切り行為・暗殺など、あらゆる陰謀を駆使することとなる。ユグルタは[[スキピオ・アエミリアヌス]]による[[ヌマンティア戦争|ヌマンティア攻撃]]時に援軍として赴いており、その際にローマ軍の軍略を学んでいた。
 
まず、ユグルタは2人の暗殺を謀り、ヒエンプサルは殺害されたが、アドヘルバルは危険を脱して、ローマへ支援を要請するために逃げ込んだ。[[紀元前116年]]、ローマの仲介によりユグルタとヒエンプサアドヘルバルはヌミディア分割の協定を結んだが、ユグルタはローマの使節団を贈賄で絡めとって、自らに有利な領土を得ることが出来た。暫くは平和な状態であったが、紀元前113年にユグルタは突如としてアドヘルバルの領地へ攻め込んで、アドヘルバルの王国の首都キルタ(現:[[コンスタンティーヌ]])を包囲した。アドヘルバルはキルタに住んでいたローマ人と協力して抵抗した為、ローマは両軍を仲裁する使節をヌミディアへと送ったが、ユグルタは再びこの使節団に対しても賄賂を送り、ユグルタによるキルタ攻撃を黙認させた。ユグルタはキルタを陥落させて、アドヘルバルを殺害し、アドヘルバルに協力した多数のローマ人を殺戮した。[[元老院 (ローマ)|ローマ元老院]]はこのユグルタの行為を受けて沸騰し、紀元前112年にヌミディアに対して宣戦を布告した。
 
== 戦争の経過 ==