「羽黒山五重塔」の版間の差分

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{{神社|
名称=千憑社|
画像=[[画像ファイル:HagurosanFive Gojuntotier pagoda at Mt. Haguro 2006-B10-29.jpg|260px200px|]]<br />国宝 羽黒山五重塔 (国宝第217号)|
所在地=山形県鶴岡市羽黒町手向7|
位置={{ウィキ座標2段度分秒|38|42|17.12|N|139|58|3.41|E|scale:25000}}|
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別名=羽黒山五重塔
}}
'''羽黒山五重塔'''(はぐろさんごじゅうのとう)は[[山形県]][[庄内地方鶴岡市]]にある羽黒町手向(とうげ)の[[羽黒山 (山形県)|羽黒山]]の参道にある室町時代建立の[[五重塔]]。
 
== 概要 ==
山形県にある山岳修験の道場である[[月山]]、[[湯殿山]]、羽黒山を合わせて[[出羽三山]]という。このうち羽黒山には三山の神を祀る三神合祭殿があり、そこへ至る参道の途中、木立の中にこの五重塔が建つ。近くには樹齢1000年、樹の周囲10mの巨杉「爺杉」がある。
[[東北地方]]では最古の塔といわれ、[[昭和]]41年([[1966年]])に[[国宝]]に指定された。塔の所有者は出羽三山神社(月山神社出羽神社湯殿山神社)である
 
[[平安時代]]中期の[[承平 (日本)|承平]]年間([[931年]] - [[938年]])[[平将門]]の[[創建]]と伝えられているが定かではない。[[再建]]現存する塔[[室町時代]]前期の[[、『羽黒山旧記』によれば応安]]5([[13681372年]] - )に羽黒山の別当職[[1375年大宝寺政氏]])[[長が再建したと伝えられる。天皇]]の御代、長13年(1608年)には[[山形藩]]主 [[最上義光]](もがみよしあき)が修理を行ったされていが棟札の写しからわかる。[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]][[建徳]]3年・[[文中]]元年棟札写しによれば五重塔は応安52([[1372(1369]])に羽黒山立柱し、永和3年(1377年)に屋上別当職[[大宝寺政氏]]が再建し相輪を上げたとも伝えられるいう
高さ約29m、[[三間五層柿葺素木造]]の塔は東北最古といわれる。近くには樹齢1000年、樹の周囲10mの巨杉“[[爺杉]]”がある。
 
塔は総高約29.2メートル、塔身高(相輪を除く)は22.2メートル。屋根は杮(こけら)葺き、様式は純和様で、塔身には彩色等を施さない素木の塔である。
[[明治時代]]の[[神仏分離]]により、[[神仏習合]]の形態だった羽黒山は[[神社]]となり、山内の寺院や僧坊はほとんど廃され、取り壊されたが、五重塔のみが取り壊されずに残された。[[江戸時代]]は五重塔の周囲には多くの建造物があったという。
 
[[明治時代]]の[[神仏分離]]により、[[神仏習合]]の形態だった羽黒山は[[出羽神社]](いではじんじゃ)となり、山内の寺院や僧坊はほとんど廃され、取り壊されたが、五重塔のみが取り壊されずに残された数少ない仏教式建築の1つである。[[江戸時代]]は五重塔の周囲には多くの建造物があったという。
神社の境内にあるため、「五重塔」という名称はあくまでも通称であり、正確には「'''千憑社'''(せんよりしゃ)」と言う末社で、[[大国主|大国主命]]を祭神として祀っている。
 
近世までは塔内に[[聖観音]]、[[軍荼利明王]]、[[妙見菩薩]]を安置していたが、神仏分離以後は[[大国主|大国主命]]を祭神として祀り、出羽三山神社の末社「'''千憑社'''(せんよりしゃ)」となっている。
 
== 所在地 ==
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== 交通 ==
鶴岡駅よりバス40分、徒歩10分
 
== 参考文献 ==
*『週刊朝日百科 日本の国宝』97号、朝日新聞社、1999、pp.'''10''' - 219 - '''10''' - 220
*藤森照信・前橋重二『五重塔入門』、新潮社、2012、pp.79 - 83
 
== 外部リンク ==
[http://www.dewasanzan.jp/keidai/haguro1.html 出羽三山神社 公式サイト]