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'''比企 能員'''(ひき よしかず)は[[平安時代]]末期、[[鎌倉時代]]初期の[[武将]]。[[鎌倉幕府]]の有力[[御家人]]。[[阿波国]]<ref>『[[愚管抄]]』より</ref>、または[[安房国]]出身とされる。[[藤原秀郷]]の流れを汲む[[比企氏]]の一族。[[源頼朝]]の乳母である[[比企尼]]の甥で、のちに養子となる。
 
比企尼の縁から[[鎌倉幕府]]二代将軍[[源頼家]]の乳母父となり、娘の[[若狭局]]が頼家の側室となって嫡子[[源一幡|一幡]]を産んだ事から権勢を強めたが、能員の台頭を恐れた[[北条時政]]との対立により[[比企能員の変]](比企の乱)が起こり、比企一族は滅亡した。
 
== 生涯 ==
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[[元暦]]元年([[1184年]])5月、[[源義高 (清水冠者)|源義高]]討伐のため[[信濃国]]に出陣。同年8月、[[平氏]]追討に従軍。元暦2年([[1185年]])3月、[[壇ノ浦の戦い]]で[[平氏]]が滅んだのち、捕虜として鎌倉に送られた平家の棟梁[[平宗盛]]と頼朝が御簾越しに対面した時、頼朝の言葉を伝える役目をしている。[[文治]]5年([[1189年]])の[[奥州合戦]]には北陸道大将軍、[[建久]]元年([[1190年]])の[[大河兼任の乱]]には東山道大将軍として出陣。同年、頼朝とともに上洛し、[[右衛門尉]]に任ぜられる。さらに[[上野国]]・[[信濃国]][[守護]](信濃国[[目代]]を兼任)に任命される。
 
[[建久]]9年([[1198年]])、娘の[[若狭局]]が頼家の側室となり、長男・[[源一幡|一幡]]を産むと[[外戚]]として権勢を振った。
 
[[正治]]元年([[1199年]])1月に頼朝が死去したのち、[[十三人の合議制]]の1人に加えられ、[[梶原景時]]排斥にも荷担([[梶原景時の変]])。