「コミュニケーション能力」の版間の差分

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Tantalos (会話 | 投稿記録)
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マッツァリーノによればコミュニケーションには本来、「情報(知識や感情も含む)をだれかに伝える・交換すること」という技術的な意味しかなく、そのため言葉の用法に従えば、上司や目上の人間へのある種の直接的な批判の類も立派なコミュニケーションとして成り立つことになると述べている。続けて「しかし、そうすることが日本の企業社会で奨励されているかというと、はなはだ疑問です」と言い、「日本人は古来、コミュニケーションなしで社会を成り立たせてきた」という事実を指摘し、安易にコミュニケーションという単語を用いる現代の風潮を皮肉混じりに批判している。
 
== スーザン・ケインの指摘 ==
スーザンによればすべての人が同じコミュニケーションスタイルにおいて最良のパフォーマンスを発揮するというわけではなく、イントロバートと呼ばれるタイプの刺激に敏感で大量の刺激を本能的に避ける人間と、エクストロバートと呼ばれる刺激に鈍感で少量の刺激では必要量を満たせないために大量の刺激を必要とする人間、二者それぞれの遺伝子レベルの性質を生かした二種類のコミュニケーションスタイルこそ無理のない持続可能な方法であるとしている。
 
近代以降、資本を求め商品をいかに買わせるかが社会の関心事となった経緯を紹介し、深い思考は苦手だが口先が巧みなエクストロバートを量産し経済拡大に用いるというシステムが教育も含めて現代では日常化してしまっているという。この社会(エクストロバートワールド)では、イントロバートは欠陥品とされ(イデオロギーの定着のため病名まで発明された経緯もある)エクストロバートになることを強制される。しかしその性質は遺伝子レベルで50%以上固定されているために、対外的にはエクストロバートを「ふるまう」、無理の結果として心の病を併発したり出社拒否に陥るケースがあるという。
 
彼女によれば、どちらのタイプも社交的であるという。両方とも自身の性質に基づいた異なる社交性を備えており、イントロバートは多数の人間と社交を行うことは刺激が大量すぎる点で本質的に苦手だが、一対一または数人との社交においてエクストロバートを凌ぐ力があり、エクストロバートは刺激に鈍感であるがために多数の人間と社交を行うことができる。その反面、一対一または数人との社交において深い友人関係を築き長期にわたり維持することは苦手であるとされる。このため双方のコミュニケーションスタイルも必然的に異なる形となるのが自然であるが、現在の資本主義競争社会におけるバイアスのかかった社会においてエクストロバート型を唯一のコミュニケションスタイルと信じて疑わない状況がある。自分の話を聞かせたいエクストロバート、人の話を聞くことができるイントロバート、従来のリーダーの適任とされるのは前者とされてきたが、近年では後者の「引き出す力」に注目が集まり前者を凌ぐリーダーとしても可能性が示唆されている。多様なコミュニケーションスタイルは人間の多様性を認める社会であることが必須条件として、イントロバートの存在と可能性について全人民的に社会的認知を深める必要があるという。
<ref>『Quiet: The Power of Introverts in a World That Can't Stop Talking』Susan Cain, 2012年 ISBN 0739341243</ref>
 
== 関連理論 ==
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== 関連書籍 ==
*『Quiet: The Power of Introverts in a World That Can't Stop Talking』Susan Cain, 2012年 ISBN 0739341243
*『反社会学講座』パオロ・マッツァリーノ、イースト・プレス、2004年
*『ITエンジニアのためのコミュニケーション能力診断 トレーニングで伸ばす9つの力』上村 有子、ソフトバンククリエイティブ、 2006年、 ISBN 4797335866