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'''マッシモ・「ミキ」ビアシオン''' ('''Massimo 'Miki' Biasion''', [[1958年]][[1月7日]] - )は[[イタリア]]出身の[[ラリー]]ドライバーであり、88、89年の[[WRC]]ドライバーズチャンピオン。
 
== 経歴==
[[ヴェネト州]][[バッサーノ・デル・グラッパ]]出身。親は[[イタリア語]][[天使]]を意味する"ミケーレ"と名づけるつもりだったが、祖父が役所に届けた名前がマッシモだったため、それが戸籍上の名前となった。愛称のミキはその両親が考えた名前に端を発していたようだ。
 
===WRC===
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*[[カルロス・サインツ]]や[[ディディエ・オリオール]]らと並んで、マシンの開発能力には長けており、ランチアがWRCを席巻した活躍は彼の存在なくして出来なかったという声が多い。現に彼とランチア時代を過ごしたオリオールはその開発能力を高く評価していた。
 
*フォード時代の彼の扱いに対して、疑問を抱くものは多かった。フォード時代に共に戦い、ベルギー人ドライバーとして初のWRCトップを快走する活躍をみせた[[ブルーノ・ティリー]]は、”なぜ、ビアオンともあろう人がこれだけ苦しんでいるのか”という言葉を残している程である。 しかし、彼が開発に携わった[[エスコート・コスワース]]はワークスチームだけに留まらず、他のプライベートチームにもその性能を認められていたことから、20年近くタイトル争いから遠ざかっていたフォード躍進の影の功労者といえるかもしれない。
 
*ランチアからフォードに移籍してきた直後の1992年にテストしたシエラ・コスワースを「人糞の積み重なり」と形容した。
 
*サインツ、オリオールと並んでマシン開発能力に秀でていたが、フォード時代はチーフ・エンジニアのフィリップ・ドゥナビンとの確執から、思うようなマシンの改良はおろか、セットアップも出来ずに走ることが多く、もし、ビアジオンの意向に沿ったセットアップがマシンに施されていたら、さらに活躍できたとの声も多い。ちなみにこのビアジオンと対立したエンジニアのドゥナビンは人嫌いで閉鎖的な性格で有名で、自分の意に沿わないドライバーを遠ざけることが多々あったようだ。ちなみにドゥナビンは後にフォードに移籍し、マシン開発に対して積極的かつ綿密な作業を行うことで有名なサインツとも対立している。
 
*イタリアでは唯一の世界チャンピオンである彼は特別の存在である。スバルやセアトで活躍した[[ピエロ・リアッティ]]や、三菱で活躍した[[ジャン・ルイジ・ガリ]]は彼に対し、今でも尊敬の念を抱いている。
 
== 関連項目==
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{{WRCドライバーズチャンピオン}}
 
{{DEFAULTSORT:ひあしおんみき}}
[[category:イタリアのラリードライバー]]
[[Category:ヴェネト州出身の人物]]
[[Category:1958年生]]
[[Category:存命人物]]
[[category:イタリアのラリードライバー]]
 
[[ca:Massimo Biasion]]