「御親兵」の版間の差分

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== 概要 ==
[[慶応]]4年(明治元年)[[2月20日_(旧暦)|2月20日]]([[1868年]][[3月13日]])、[[鳥羽伏見の戦い]]後の軍事的緊張に対応するために設置された。直後に京都警備隊を名目に諸藩からの献兵が集められたが、実態は[[長州藩]]の一部部隊を中心として在京の諸藩の浪人を集めただけに過ぎなかった。翌年には[[戊辰戦争]]戦争終了を理由に[[十津川郷士]]ら400名による組織に縮小された。[[東京奠都]]後には長州藩部隊が東京城([[江戸城]]から改名、現在の[[皇居]])警護にあたった。
 
明治3年([[1870年]])12月、[[山縣有朋]]は当時鹿児島藩([[薩摩藩]])の政務にあたっていた[[西郷隆盛]]に対して、天皇と中央政府を守るために薩摩藩・長州藩・[[土佐藩]]の献兵からなる親兵を組織することを提案した。これは当時中央政府に属していなかった西郷を薩摩藩の親兵入京を口実に政府内に入れることで政府の強化を図る側面もあった。ただ、この構想には複雑な政治的背景があった。[[木戸孝允]]はこの御親兵の力を背景に[[廃藩置県]]やそれを支える[[官僚]]・[[租税]]制度の整備などの中央集権化政策を一気に実施しようとした。だが、[[大久保利通]]は木戸や[[大隈重信]]が進める急進的な政策には批判的で、自己の出身基盤である薩摩藩の親兵入京と西郷の入閣はこの流れを変える足がかりになると考えたのである。