「日光湯元温泉」の版間の差分

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== 歴史 ==
{{和暦|[[788}}年]](延暦7年)、[[四本龍寺]](紫雲立寺)を建立した[[勝道]]によって発見されたのが発端という。冬の寒さが厳しいため、昭和の初期までは主に夏だけの[[湯治#湯治場|湯治場]]だった<ref>『日本地名大百科』、小学館、1996年、p.897 ISBN 4-09-523101-7</ref>。
 
[[江戸時代]][[文政]]年間に成立した「日光山志」([[植田孟縉]]著)では日光湯元温泉を'''中禅寺温泉八湯'''(ちゅうぜんじおんせん はちゆ)と記しており<ref name = nikkosan-shi>[[植田孟縉]]著 「日光山志」</ref>、[[明治]]期に編纂され刊行された「[[古事類苑]]」ではこの書を引用し'''日光温泉'''(にっこうおんせん)としている<ref name = koji-ruien>[[明治政府]]編纂 「[[古事類苑]]」</ref>。
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# 自在湯 : 混じり気が無い。洪水の時など遣い水が不自由である時など、この湯でご飯を炊いても匂いがしない。
 
また{{和暦|[[1878}}6年]](明治11年)6月、[[イザベラ・バード]]は日光滞在中に当地を訪れて八島屋に宿泊し、自身の本国への手紙に湯元温泉の活況ぶりを記した<ref>『イザベラ・バードの日本紀行』([[講談社]])</ref>。
 
それによると、湯元温泉は当時[[リウマチ]]や頑固な[[皮膚病]]に効能のある温泉として有名で、大勢の[[湯治]]客によりごった返していた。また宿屋は内外ともに清潔で畳は白く襖は軽く香気を放っており、宿泊客はお茶やお茶請けの菓子、凍った雪でもてなされていたという。
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それ以外にバードは、湯元には密集した村落があったこと、村落の住宅は赤い[[カシワ|柏]][[イヌマキ|槙]]材のきれいな住まいであったこと、住人は毎年[[10月10日]]に冬に備え住宅を[[むしろ]]で包み翌年[[5月10日]]まで週交代の1人の当番を残して低地で暮らしていたこと、湯元の入口には[[露天風呂]]があったこと、村の[[浴場]]は4箇所あったこと、村の背後には四角い浴槽の大きな温泉があり湯温は[[華氏]]130度([[摂氏]]54.4度)であったこと、冬は3メートルの積雪があったことなどを書き残している。
 
{{和暦|[[1954}}年]](昭和29年)、湯元温泉は[[酸ヶ湯|酸ヶ湯温泉]]および[[四万温泉]]とともに[[国民保養温泉地]]の第一号指定を受けた。
 
== 泉質 ==
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源泉地は、温泉街のはずれの湯ノ平湿原にある。各源泉は屋根によって保護されている。ここの源泉は日光湯元の各旅館への配湯だけでなく、近くの光徳温泉や遠く離れた中禅寺温泉まで分湯されている。
 
源泉地の隣には[[輪王寺|日光山輪王寺]]別院の[[温泉寺 (日光市)|温泉寺]]がある。これは8世紀に勝道が当温泉を発見した際に建立し、その後途絶えていたもので、現存する構造物は{{和暦|[[1973}}年]](昭和48年)に[[輪王寺]]によって建てられたものである。お寺にも温泉が引かれており、参拝客は男女別の[[共同浴場]]として利用できる。
 
== 交通 ==