「三国協商」の版間の差分

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[[ファイル:3goku kyosho & 3goku domei.png|400px|right|thumb|三国同盟と三国協商]]
'''三国協商'''(さんごくきょうしょう、{{lang-en|Triple Entente}}、{{lang-fr|Triple-Entente}}、{{lang-ru|Антанта}})とは[[19世紀]]末から[[20世紀]]初頭において[[イギリス]]・[[フランス]]・[[ロシア帝国]]の各国の間で締結された[[露仏同盟]]・[[英露協商]]・[[英仏協商]]によって作られた三国の協調関係を指した言葉<ref>「[[協商]]」([[フランス語]]「''entente''」の訳語。「同意」「協定」を意味する)とは国家間における[[同盟]]ほど強くない緩やかな協力関係の事であって商業活動の協力の事ではない。</ref>。'''英仏露協商'''ともいい、[[三国同盟 (1882年)|三国同盟]]と対立し、[[第一次世界大戦]]の主要な交戦国となった。また、この関係に[[日本]]がかかわり、「'''四国協商'''」という(詳しくは[[三国協商#三国協商の成立|後述]])
 
== 事前の経緯 ==
しかしドイツに[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]が即位するとビスマルクはこの[[皇帝]]と衝突し、[[1890年]]に退陣する。ビスマルクのくびきを離れたヴィルヘルム2世は既にビスマルクによって形成されていた三国同盟をビスマルクの思惑とは異なる方向に利用して[[オーストリア・ハンガリー帝国]]や[[イタリア]]と接近し、当時の[[植民地]]の過半を所有していたイギリス・フランスから植民地のパイを奪い取ろとうと画策した。またこれもビスマルクによって調印された[[独露再保障条約]]の更新を拒否する。
 
== 三国協商 の成立 ==
これによって外交的に孤立したロシアは同じく孤立していたフランスに接近し、翌年の[[1891年]]から[[1894年]]にかけて交渉を行い、[[1891年]]に政治協定を、次いで[[1894年]]に軍事協定を成立させた([[露仏同盟]])。
 
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