「米沢城」の版間の差分

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8代[[長井広房|広房]]は[[室町時代]]初期([[天授 (日本)|天授]]6年([[1380年]])、[[応永]]9年([[1403年]])、応永20年([[1413年]])などの説がある。)に、[[伊達宗遠]]に侵略されこの地を追われた。以後、[[安土桃山時代]]までここは[[伊達氏]]の支配下に入った。[[天文 (元号)|天文]]17年([[1548年]])[[伊達稙宗]]・晴宗父子の対立である[[天文の乱]]を経て、晴宗は本拠地を[[桑折西山城]]より米沢城に移した。
 
[[天正]]17年([[1589年]])政宗は[[蘆名義広]]を破り、[[蘆名氏]]を滅亡させると[[若松城|黒川城]]に本拠を移し、晴宗の弟にあたる[[伊達宗澄|宗澄]]ついで[[伊達梁川宗清|宗清]]を城代に据えた。しかし、[[豊臣秀吉]]はこの会津攻略を認めず政宗から召し上げたため、翌年には本拠を米沢に戻すことになる。天正19年([[1591年]])政宗は[[豊臣秀吉]]の命により[[岩出山城]]に移った。
 
置賜郡は伊達氏代わって[[会津]]に封ぜられた[[蒲生氏郷]]の支配するところとなり、重臣・[[蒲生郷安]]が米沢城主となった。郷安はこの時、城の改修を行っている。[[文禄]]年中に[[白子神社 (米沢市)|白子神社]]が米沢城鎮守となる。[[慶長]]2年([[1597年]])氏郷の子、[[蒲生秀行 (侍従)|秀行]]は[[下野国]][[宇都宮市|宇都宮]]に移封となり、会津には[[越後国]]より120万石で上杉景勝が入封し、米沢城主には重臣・[[直江兼続]]を置いた。