メインメニューを開く

差分

編集の要約なし
広元から[[三河国]]海東庄を与えられ、定住する。その後[[尾張国]]の[[熱田神宮]][[大宮司]]の養子に入る。後に熱田神宮の大宮司職は辞したが、後に嫡男の忠茂が幕府の影響力を背景に大宮司となった。
 
{{和暦|[[1245}}年]](寛元3年)、鎌倉幕府の[[評定衆]]となり、鎌倉幕府の政務に携わった。しかし、{{和暦|[[1247}}年]](宝治元年)の[[宝治合戦]]で、兄の毛利季光が[[三浦氏]]側に味方して敗死したため、それに連座して評定衆を罷免された。
 
{{和暦|[[1265}}年]](文永2年)、[[京都]]にて没。
 
忠成の末裔は女系で三河国[[酒井氏]]の祖となり、後に[[松平氏]]に仕えて活躍する、[[酒井忠次]]や[[酒井正親]]を輩出した。
匿名利用者