「ハンナ・スホツカ」の版間の差分
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'''ハンナ・スホツカ'''
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[[1968年]]に[[ポズナン]]の[[アダム・ミツキェヴィチ大学]](ポズナン大学)法学部を卒業。同大学で法学博士号を取得後、[[ルブリン]]の[[ルブリン・カトリック大学|カトリック大学]]やポーランド法学アカデミーで教授を務める。
[[1968年]]より[[民主党 (ポーランド 1939-)|民主党]]に所属し、[[1980年]]から[[1985年]]まで[[ポーランド共和国下院|セイム
学術活動に専念した後[[1989年]]にセイムに復帰し、民主党や独立自主管理労働組合「連帯」などが集まって形成した野党である[[連帯市民委員会]]の議員として活動。[[ポーランド民主化運動|ポーランドの民主化]]がなされた後は[[民主連合 (ポーランド)|民主連合]]に所属してセイムの憲法委員会で活動、その後民主連合が[[自由民主会議]]と合併して[[自由連合 (ポーランド)|自由連合]]となるとこの自由連合に所属してセイム議員としての活動を継続。[[2001年]]の選挙では出馬しなかった。
[[1992年]][[7月10日]]、[[ポーランドの首相一覧|ポーランド首相]]に就任し、[[中道]]と[[右派]]の政党からなる[[連立政権]]を発足させた。この政権は国内の[[民族ドイツ人|ドイツ系少数民族]]からも全面的な支持を獲得した。一貫して[[キリスト教民主主義]]のうちの[[自由主義|リベラル派]]のスタンスを取った。[[選出もしくは任命された女性の政府首脳の一覧|女性首相]]でありながら
[[1997年]]には[[イェジ・ブゼク]]内閣において[[法相]]。[[2000年]]の内閣総辞職に伴い、法務相としても辞職。[[2001年]]、[[ローマ教皇庁]]と[[マルタ騎士団]]へのポーランド共和国[[大使|全権大使]](兼任)に就任し現在に至る。また、[[ビル・クリントン]]、[[ミハイル・ゴルバチョフ]]、[[ジョン・メージャー]]、[[ヘルムート・コール]]など世界各国の過去の主だった[[首脳]]およそ50人と各界の指導者たちで構成される、[[世界]]に[[民主主義]]を広めるための非政府組織[[:en:Club of Madrid|クラブ・オブ・マドリッド]]の会員。▼
▲[[1997年]]には[[イェジ・ブゼク]]内閣において[[法相]]。[[2000年]]の内閣総辞職に伴い、法務相としても辞職。[[2001年]]、[[ローマ教皇庁]]と[[マルタ騎士団]]へのポーランド共和国[[大使|全権大使]](兼任)に就任し現在に至る。また、[[ビル・クリントン]]、[[ミハイル・ゴルバチョフ]]、[[ジョン・メージャー]]、[[ヘルムート・コール]]など世界各国の過去の主だった
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{{Succession box
| title = {{flagicon|POL}} ポーランド共和国法務大臣
| years = 第8代:1997年 - 2000年
| before = レシェク・クビツキ
| after = [[イェジ・ブゼク]]
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{{Succession box
| title = {{flagicon|POL}} [[ポーランドの首相一覧|ポーランド共和国首相]]
| years = 第三共和制第5代:1992年 - 1993年
| before = [[ヴァルデマル・パヴラク]]
| after = [[ヴァルデマル・パヴラク]]
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{{Succession box
| title = {{flagicon|POL}} 在マルタ騎士団特命全権大使
| years = 2002年 -
| before = ステファン・フランキェヴィチ ([[:en:Stefan Frankiewicz|en]])
| after = (現職)
57 ⟶ 56行目:
{{Succession box
| title = {{flagicon|POL}} 在バチカン市国特命全権大使
| years = 2001年 -
| before = ステファン・フランキェヴィチ ([[:en:Stefan Frankiewicz|en]])
| after = (現職)
63 ⟶ 62行目:
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{{DEFAULTSORT:すほつか
[[Category:ポーランドの政治家]]
[[Category:ポーランドの法学者]]
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