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'''アンジェイ・ヒェロニム・フランチシェク・ザモイスキ'''([[ポーランド語]]:Andrzej Hieronim Franciszek Zamoyski、1717年 - 1792年)は、[[ポーランド・リトアニア共和国]]の貴族、政治家、[[伯爵]]。[[ザモシチ]]の第10代[[オルディナト]]で、1757年より1764年までイノヴロツワフ県知事を、1764年より1767年まで王冠領[[カンツレシュ|大法官]]を務め、ハリチュ、[[ルブリン]]、ブロドニツァ、ロストキの[[スタロスタ|代官]]であった。
 
ザモイスキはポーランドの歴史において最も重要な[[啓蒙主義]]の改革者、思想家の一人として知られており、1764年5月の[[大セイム|セイム]]において大規模な国家改革を提唱した人物だった。この意見書は議会システムの改善、貴族権力の制限、[[農奴制]]の廃止を訴えたものだった。1760年、ザモイスキは自らの所領において農奴制を廃止したが、これは共和国の[[マグナート]]の中では初めてのことであった。
 
1776年、改革を推進していた国王[[スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ]]とセイムは、ザモイスキに共和国のための新しい法典を作成するように要請した。1780年までに。ザモイスキの指導の下で「[[ザモイスキ法典]]」の名で知られる新法典が編纂された。この法典では王権が強化され、全ての官僚が議会(セイム)に責任を持ち、聖職者と教会財産は国家の監督下におかれ、全ての無産[[シュラフタ]](土地を持たない参政権者)から貴族としての諸特権の多くを剥奪されることが決まっていた。ザモイスキの進歩的な法典は、憲法改革的な要素を含むものであったが、結局セイムはこの法典を通過させなかった。
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*[[白鷲勲章]]…1758年8月3日
 
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