「スモレンスク戦争」の版間の差分

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1632年、[[ポーランド・リトアニア共和国]]の国王[[ジグムント3世|ジグムント3世ヴァザ]]が死んだ。連合共和国の貴族階級([[シュラフタ]])はすぐにジグムントの長男[[ヴワディスワフ4世 (ポーランド王)|ヴワディスワフ4世ヴァザ]]を新国王に選出したが、近隣諸国は共和国の弱体化の程度を調べるためにも、[[国王自由選挙]]の選出過程が長期化することを期待していた。[[スウェーデン]]王[[グスタフ2世アドルフ (スウェーデン王)|グスタフ2世アドルフ]]は、[[モスクワ・ロシア]]と[[オスマン帝国]]に使節を派遣し、共和国を仮想敵国とする軍事同盟の結成を打診した。
 
共和国は戦争の準備が出来ていなかった。[[ヴォイスコ・クファルツィアエ|国王常備軍]]は3000人程の規模であった。スモレンスク守備隊は500人の精鋭から成り、国境地帯の守備兵の大半は職業軍人でも傭兵でもない、100人から200人程度の地元の有志たちであった。ロシアが戦争の準備をしていることに気付き、共和国議会([[大セイム|セイム]])は1632年の春に、4500名の兵士を雇い入れた。1632年の夏頃までに、[[スモレンスク県]]の副知事(podwojewoda)だった[[サムエル・ドルツキ=ソコリンスキ]]は、[[ポスポリテ・ルシェニェ|総動員令]]による500人の地元志願兵、および2500人の常備軍と[[コサック]]をかき集めることが出来た。5月、[[セナト]](共和国元老院)は軍隊規模の拡大を承認したが、リトアニア大[[ヘトマン]](総司令官)の[[レフ・サピェハ]]はこれに反対し、軍は現在の規模ですでに十分であるし、おそらく戦争は起きないだろうと発言した。しかし、リトアニア野戦ヘトマンの[[クシシュトフ・ラジヴィウ]]は兵士を2000人増加させた。
 
ロシアは[[大動乱]]における荒廃からある程度回復しており、共和国は選挙王が死ぬと一時的に弱体化するだろうと予想していて、オスマン帝国やスウェーデンの出方を見ることなく単独出兵した。ロシアの狙いは、1618年に[[ロシア・ポーランド戦争 (1605年-1618年)|ロシア・ポーランド戦争]]の休戦条約である[[デウリノ条約]]によって、共和国へ割譲していた[[スモレンスク]]の支配権を回復することだった。当時スモレンスクは[[スモレンスク県]]の県庁所在地になっていたが、ロシアとポーランド・リトアニアにとっては長年の係争地帯であり、15世紀から17世紀まで何度も奪い合いが続いていた([[モスクワ・リトアニア戦争]])。この戦争の主唱者はツァーリの実父[[フィラレート (モスクワ総主教)|フィラレート]]総主教であり、総主教は宮廷内の反ポーランド派閥の指導者だった。[[ゼムスキー・ソボル]](ロシア議会)は対ポーランド復讐と失地回復を鼓舞し、これを受けてロシア軍は西へと進軍した。