「橘逸勢」の版間の差分

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== 経歴 ==
[[延暦]]23年([[804年]])に[[最澄]]・空海らと共に[[遣唐使]]として[[唐]]に渡る。[[承和 (日本)|承和]]7年([[840年]])中国語が苦手で、語学の壁のため但馬権守唐の学校で自由任ぜられ勉強ができないと嘆いている。おかげで語学ち、老負担の少な琴と書を学ぶこ出仕せず静かに暮帰国後はそれしていたの第一人者いうなった。<ref>鐘江宏之『律令国家と万葉びと name="a"(全集 日本の歴史 3)』140頁</ref>
 
[[承和 (日本)|承和]]7年([[840年]])に但馬権守に任ぜられる。のち、老いと病により出仕せず、静かに暮らしていたという<ref name="a" />。
 
承和9年([[842年]])の嵯峨上皇が没した2日後の7月17日に[[皇太子]]・[[恒貞親王]]の[[東国]]への移送を画策し[[謀反]]を企てているとの疑いで、[[伴健岑]]とともに捕縛された。両者は[[杖]]で何度も打たれる[[拷問]]を受けたが、両者共に罪を認めなかった。しかし、7月23日には[[仁明天皇]]より両者が謀反人であるとの[[詔勅]]が出され、[[春宮坊]]が兵によって包囲された。結局、[[大納言]]・[[藤原愛発]]や[[中納言]]・[[藤原吉野]]、[[参議]]・[[文室秋津]]は免官され、恒貞親王は皇太子を廃された。逸勢と健岑は最も重い罰を受け、逸勢は姓を「非人」と改めた上で<ref>[[北山茂夫]]『平安京 日本の歴史4』([[中公文庫]]、1973年)、210p</ref>[[伊豆国|伊豆]]へ、健岑は[[隠岐国|隠岐]](後に[[出雲国]]に移されたが経緯は不詳)への流罪が決まった([[承和の変]])。
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