「千字文」の版間の差分

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==日本への影響==
『[[古事記]]』には、[[和邇吉師]]が[[応神天皇]]([[270年|270]] - [[310年]])の治めていた頃の[[日本]]へ千字文と『[[論語]]』10篇を伝えたとされているが、これは千字文が成立する以前である。この[[矛盾]]については、記事自体をただの伝説であると捉えられたり、いくつかの事実を反映しているという意見や、別の千字の文が伝えられたという説がある。考古学では各地から見つかる律令期の木簡のなかに、文字の練習や書籍の文字を書き写したものがあり、それを[[習書]]と総称するが、この習書木簡に多く観られるのが『論語』と『千文字』であるため、漢字を学ぶ手本として比較的はやく大陸からもたらされたと考えられている。<ref>鐘江宏之『律令国家と万葉びと (全集 日本の歴史 3)』203頁</ref>
 
[[正倉院]]へ[[光明皇后]]が寄進したときの目録『国家珍宝帳』(751年)には「搨晋右将軍羲之書巻第五十一眞草千字文」があり、[[国宝]]の『眞草千字文』がそれだと推定されている。正倉院文書にも千字文を習字した断片があるので、8世紀には習字手本として使用されていた。[[最澄]]が[[延暦寺]]に納めた図書目録にも、唐から持ち帰った拓本の千字文が記録されている。[[平安時代]]の日本国現在書目録(890年頃)には、6種類の注釈本が記載されている。[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]には注釈付本が出版され、[[天正]]二年([[1574年]])には習字のための「四体千字文」も刊行された。[[江戸時代]]には多数の注釈本が刊行された。