「山辺の道」の版間の差分

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『[[古事記]]』では[[崇神天皇]]の条「御陵は山辺の道の勾の岡の上に在り」、同じく[[景行天皇|景行紀]]には「御陵は山辺の道上に在り」とある。
 
乃楽山([[平城山丘陵|奈良山]])で討たれた[[平群鮪]]を追う影媛([[物部麁鹿火]]の娘)の悲しみを詠んだ歌に「石の上 布留を過ぎて 薦枕 高橋過ぎ 物多に 大宅過ぎ 春日 春日を過ぎ 妻隠る 小佐保を過ぎ …」とあり([[武烈天皇]]即位前紀)、布留(ふる)・高橋・大宅・春日・佐保を経て乃楽山に至っているが、山辺の道の延長であろう<ref name="kadokawa">[[角川書店]]『[[角川日本地名大辞典]] 29 奈良県』 1138-1139頁</ref><ref name="heibon">[[平凡社]]『日本歴史地名大系 30 奈良県の地名』 28-29頁</ref>。
 
この道は奈良から石上・布留([[天理市]])を経て三輪([[桜井市]])に通じていたとみられるが、しだいに西側の[[上街道 (上ツ道)|上ツ道]]が多く用いられるようになった<ref name="heibon" />。
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この山辺の道は、[[弥生時代]]後期には、[[布留遺跡]]と[[纏向遺跡]]を結ぶ道であったとも推測されている。
 
その全長は約35kmであるが、その南部に古道の痕跡や景観が残り<ref name="heibon" />、現在一般的にハイキングコースとして親しまれるのは天理市の[[石上神宮]]から桜井市の[[大神神社]]付近までの約15kmの行程で、その多くは[[東海自然歩道]]となっている<ref name="narachiri">奈良地理学会編『大和を歩く-ひとあじちがう歴史地理探訪』[[奈良新聞社]] 2000年 ISBN 4-88856-031178-5180頁</ref>。
 
また、山の辺の道は、山林、集落、田畑の間を縫うように通っている<ref name="narachiri" />。田畑の間を抜ける際にはその眼下に奈良盆地が大きく開けており、[[生駒山]]や[[二上山 (奈良県・大阪府)|二上山]]<ref name="narachiri" />、そして[[大和葛城山|葛城]]・[[金剛山 (金剛山地)|金剛]]の連嶺を背景にした[[大和三山]]なども遠望できる<ref name="heibon" />。
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== 参考文献 ==
* 奈良地理学会編『大和を歩く-ひとあじちがう歴史地理探訪』[[奈良新聞社]] 2000年 ISBN 4-88856-031-5
 
== 関連項目 ==