「水戸藩」の版間の差分

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尾張藩、紀州藩が藩主の血統断絶、幕府からの財政援助、独立志向の附家老による幕府統制への迎合などにより御三卿や将軍家から藩主を迎えたのに対し、水戸藩では支藩からの養子により藩祖の血統を守った。継嗣なく死亡した八代藩主[[徳川斉脩|斉脩]]の後継問題では[[清水家]]から[[徳川斉彊]]を擁立する派閥と[[藤田幽谷]]の門人らを中心とした藩祖血統の維持派が対立し、七代藩主の三男である[[徳川斉昭]]が九代藩主についた。
 
九代藩主[[徳川斉昭|斉昭]]は藩政の改革と幕政への参加を志し、藤田派を中心に人材登用を行うとともに、藩内の保守派の中心となり幕府との連携を果たそうとする[[家老]]の勢力を削ぐため一般家臣と同じ知行制に組み込んだ。財政を圧迫した藩主と付家老の江戸定府制度についても一年ごとの交代制に改めた。教育改革についても[[弘道館]]を建設して整備を行い、[[水戸学]]が藩論に強い影響を与えることになった。しかし強い尊王攘夷傾向のため[[江戸幕府|幕府]]に疎まれ隠居を余儀なくされた。また斉昭は、財政難の中で、新規召し抱えをおこなったため、藩財政は窮乏を極めた。なお15代将軍[[徳川慶喜]]は斉昭の子であるが、[[御三卿]]の一つである[[一橋家]]を継いでから将軍になったものである。
 
斉昭の隠居後には改革派の[[藤田東湖]]らも免職・蟄居となった。十代藩主となった[[徳川慶篤|慶篤]]は三連枝後見([[高松藩]]主・[[松平頼胤]]、[[守山藩]]主・[[松平頼誠]]、[[府中藩]]主・[[松平頼縄]])のもとで藩政を行った。