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[[画像:Ohdairajyuku.jpg|thumb|280px260px|right|大平宿(2008年6月)]]
[[画像:Irorinosato.jpg|thumb|240px260px|right|いろりの里として(2008年6月)]]
'''大平宿'''(おおだいらじゅく)'''は、[[長野県]][[飯田市]]に存在した[[宿場町]]である。
 
[[中山道]]と[[塩の道 (日本) |三州街道]](伊那街道)を結ぶ大平街道のほぼ中間地点、標高1150mの大平高原と呼ばれる山中のわずかな平地に建物が点在している。{{-}}
 
現在は'''「いろりの里 大平宿」'''として保存され、不定期で各種イベントがおこなわれている。
[[画像:Irorinosato.jpg|thumb|240px|right|いろりの里として(2008年6月)]]
現在は'''「いろりの里 大平宿」'''として保存され、不定期で各種イベントがおこなわれている。
 
また一般開放されているので、協力費を添えて申し込めば、古民家一軒を借り切って宿泊(すべて自給による)することも可能となっている__TOC__{{-}}
 
==大平街道==
[[画像:Way Ohdairakaidou.jpg|thumb|190px260px|right|大平街道標(2008年6月)]]
江戸時代中期(宝暦4年)、[[伊那谷]]と中山道の[[妻籠宿]]を結ぶため、[[信濃飯田藩|飯田藩]]によって建設された街道である<ref>基礎となる峠道は鎌倉時代後期にはすでにあったようだが、[[けもの道]]のような有様で、ほとんど通る人はなかったようである。</ref>
 
それまで[[木曾谷|木曽谷]]へ行くには、[[伊那市]]の[[国道361号|権兵衛街道]]を経て[[奈良井宿]]へ行くルートしかなく、[[木曽山脈]]を南へ大きく迂回しなければ妻籠宿へ行くことができなかった。この街道の開通により、最短距離で妻籠宿へ行くことが可能となった。
 
飯田市中心部の三州街道(現・[[国道151号|国道151号線]]中央通り三・四丁目)を起点に、[[長野県道8号飯田南木曽線]]、[[飯田峠]]と[[大平峠]]([[木曽峠]])を経て、[[木曽郡]][[南木曽町]]南部の吾妻保神地区で[[国道256号|国道256号線]]となり、南木曽町吾妻地区で中山道(旧中山道)と合流する街道である。なお、街道のうち長野県道8号飯田南木曽線は冬季閉鎖となっている。{{-}}
 
==略歴==
その後、飯田藩により大平街道の通行を命じられた者や[[元善光寺]]参りの参拝者が滞在するようになり、文化年間(1810年代)には茶屋宿として栄えた。
 
明治になると、大平第三番小学正道学校や大平郵便局も設置され、長野県南部と周辺都市との交通や物流の要所となった。明治42年、木曽に[[中央本線]]が全線開通すると最盛期を迎え、戸数70を超える賑わいを見せた。しかし、大正12年に[[伊那電気鉄道|伊那電鉄]]が飯田まで開通すると、それまで大平宿を通って中央線を利用していた人々が減少し、さらに昭和30年代に[[清内路村]](現[[阿智村]])の[[清内路峠]]を越える国道256号が開通すると大平街道の交通や物流は減少の一途をたど辿った。また、高度経済成長によるエネルギー需要の変化により村の中心産業であった林業(炭焼き)が成り立たなくなり、昭和35年の戸数は全盛期の半数以下の38戸にまで減少した。
 
昭和45年、住民の総意として集団移住を決定し、同年11月末、大平宿は約250年の歴史に幕を下ろしたが、現在でも有志によってその維持が続けられている。
 
==沿革==
*[[宝暦]]4年 - 木地師・大蔵五平治、穀商人・山田屋新七らが開墾。入植数7戸。
*宝暦6年 - 飯田藩により水路建設。
*[[安永 (元号)|安永]]6年 - 木地税の廃止を嘆願。
*安永7年[[11月]] - 木地税の廃止。
*[[天明]]元年 - 貧困により大平から初の移住者が出る(山田屋新七の子孫)。戸数22戸。
*[[文化 (元号)|文化]]10年代 - 宿場町として栄える。
*[[天保]]7-11年 - 寒波による飢饉の発生。
*[[安政]]3年 - 宿場町として最盛。約28戸180人。
*[[1872年]](明治5年) - 学制が頒布。戸数39戸。
*[[1873年]](明治6年) - 大平第三番小学正道学校(後に丸山小学校大平分校と改名)開校。戸数47戸。
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