「ゲンナジー・ヤナーエフ」の版間の差分

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クーデターの前年にあたる[[1990年]]7月の[[ソ連共産党]]大会で中央委員に選出され、その後、政治局員兼書記に選出された。ソ連人民代議員でもあり、[[人民代議員大会]]の最大会派「共産主義者」の議長であった。
 
人民代議員大会で副大統領に選ばれた際には、第1回投票では急進改革派や独立志向の強い共和国から選出された代議員の反対で当選に必要な得票を獲得できなかったが、シェワルナゼに去られ焦燥するゴルバチョフがヤナーエフの選出に固執し、選挙のやり直しを強硬に求めたため、再投票の結果、副大統領に選出された。副大統領就任に伴い政治局員を辞任。ゴルバチョフは、ヤナーエフが議会における最大会派の代表であったことと、上の者の命令に忠実な点、さらに豊富な訪日歴(12回ないし13回とされる)に代表される国際交流経験・交渉力を買ったとされる。しかしながら政治的には保守派であり、一般には元政治局員の[[エゴール・リガチョフ]]元政治局員[[ウラジーミル・クリュチコフ]]国家保安委員会([[ソ連国家保安委員会|KGB]])議長[[ウラジーミル・クリュチコフ]]と並んで[[レオニード・ブレジネフ]]元書記長の流れを汲む保守派の中心人物と見られていた。この観測は的を射ていた。
 
ゴルバチョフが1991年に再び改革派に舵を切り、新連邦条約の調印を決定した上で、[[クリミア半島]]フォロスの大統領別荘に出かけて不在中に謀議し、クーデターを敢行。国家非常事態委員会を組織し、ゴルバチョフが健康悪化により、大統領職を遂行することが困難な状況であると発表し、自らは大統領代行に就任した。しかし、結局、クーデターは3日間で失敗に終わり、ヤナーエフは逮捕された。