「水野忠重」の版間の差分

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天正8年8月、佐久間信盛が追放されて三河刈屋城が空くと、忠重は織田信長よりそこを与えられ、9月23日に入城した<ref>『家忠日記』</ref>。鷲塚城は廃城となった。これにより、再び信長の臣の立場に戻ったのだろう。[[織田信忠]]の軍団に組み込まれたらしい。翌9年1月4日、信忠の命により、同族[[水野守隆]]とともに横須賀城の番手として派遣された<ref name="shincyo">『信長公記』</ref>。この後、家康の高天神城攻めに加わり、度々信長に報告。1月25日付で、信長より細々とした指示を受けている<ref name="bunsho">『水野文書』</ref>。この時の忠重は、攻城軍の目付か軍監として徳川に付けられたものと思われている。
 
翌10年2月、信忠の[[武田甲州征伐]]に従軍。武田滅亡ののち、信長を三河池鯉鮒にて饗宴している<ref name="shincyo"/>。このとき[[小栗吉忠]]や[[浅井道忠]]は忠重の家臣である。
 
天正10年([[1582年]])、[[本能寺の変]]が起こったときは信忠と共に[[二条城]]にあったが、二条城から脱出して[[三河国]]刈谷に逃げ戻った。その後は[[織田信雄]]に属し、小牧陣が起こると本治城・常滑城を攻略。[[小牧・長久手の戦い]]で先導役を務めた。さらに蟹江攻城戦で活躍した<ref name="yuukikansei">『結城水野家譜』『寛政重修諸家譜』。ただし両史料では、忠重は家康の家臣となっているから注意が必要。</ref>。