「シエーナ」の版間の差分

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[[カンポ広場]]は、13世紀初頭までには都市の世俗生活の中心として重要な役割を担うようになった。市場やスポーツ行事([[サッカー]]の原型とされるカルチョ・フィオレンティノなど)の場として利用され、また新しい街路はカンポ広場を中心に作られた。1194年、カンポ広場に面した現在の市庁舎のある場所で、土壌浸食を防ぐための壁が建設されており、このことは広場が重要な役割を持つこととなったしるしと言えるだろう。
 
[[1240年]]には[[シエナ大学|シエーナ大学]]が設立された。シエーナ大学は法学と医学で知られた。
 
==== シエーナとフィレンツェ ====
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1487年、貴族党派のパンドルフォ・ペトルッチ{{enlink|Pandolfo Petrucci}}が政権を掌握した。ペトルッチは1512年に没するまでシエーナをよく治め、芸術と科学を保護し、[[チェーザレ・ボルジア]]から都市を防衛した。しかしパンドルフォの死後、ペトルッチ家の内紛などにより政情は安定せず、皇帝カール5世はスペイン軍団にシエーナを占領させた。1552年、フランスと手を結んだシエーナ共和国はスペイン兵を追放したが、カール5世は[[コンドッティエーレ|傭兵隊長]]ジャン・ジャコモ・メディチ{{enlink|Gian Giacomo Medici}}を派遣してシエーナの攻略に当たらせた。[[1555年]][[4月17日]]、シエーナはスペインに降伏し、シエーナ共和国は終焉を迎える。1559年の[[カトー・カンブレジ条約]]で、スペインはシエーナを[[フィレンツェ公国]](のちに[[トスカーナ大公国]])に割譲した。以後、20世紀のイタリア統一まで、シエーナはトスカーナ大公国領となる。
 
== 社会人口 ==
=== 人口推移 ===
<timeline>
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|File:SienaGasse.jpg|路地
}}
 
== 教育 ==
*[[シエナ大学|シエーナ大学]]
 
== スポーツ ==
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* {{Flagicon|GER}} [[ヴァイマル]]、ドイツ
 
== 人物 ==
=== 著名な出身者 ===
*[[アレクサンデル3世 (ローマ教皇)|アレクサンデル3世]] - <!--1105年?生-->ローマ教皇(在位:1159年 - 1181年)
*[[ピエトロ・ロレンツェッティ]] - <!--1280年頃生-->シエナ派の画家
*[[シモーネ・マルティーニ]] - <!--1284年頃生-->シエナ派の画家
*[[アンブロージョ・ロレンツェッティ]] - <!--1290年頃生-->シエナ派の画家
*[[シエナのカタリナ]] -<!-- 1347年生 -->ドミニコ会の修道女。カトリック等の聖人、「聖女カタリナ」。
*[[ピウス2世 (ローマ教皇)|ピウス2世]] - <!-- 1405年生 -->第210代ローマ教皇(在位:1458年 - 1464年)
*[[ピウス3世 (ローマ教皇)|ピウス3世]] - <!-- 1439年生 -->第215代ローマ教皇(在位:1503年)
*[[フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニ]] - <!-- 1439年生 -->彫刻家・画家・建築家
*[[ドメニコ・ベッカフーミ]] - <!-- 1486年生 -->シエナ派の画家
*[[ジョヴァンニ・バティスタ・フェラーリ]] - <!-- 1584年生 -->17世紀のイエズス会士、植物学者
*[[アレクサンデル7世 (ローマ教皇)|アレクサンデル7世]] - <!--1599年生-->第237代ローマ教皇(在位:1655年 - 1667年)
*[[ジャンナ・ナンニーニ]] - <!-- 1956年生 -->ロック歌手
*[[アレッサンドロ・ナニーニ]] - <!-- 1959年生 -->レーサー、実業家
== 関連項目 ==
* [[シェンナ]] - 当地で産出する黄褐色の顔料で、その名はシエーナの地名に由来する。