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生野区周辺や大阪の[[ミナミ]]を中心に戦後の群雄割拠した小団体との[[抗争]]を通して勢力を拡大させ、[[1950年代]]後半には600名を超える構成員を擁したといわれる。
明友会という組織自体は現在の[[ヤクザ]]のような強固なものではなく、愚連隊の連合体というべき比較的もろい組織だった。
[[1960年]]に三代目[[山口組]]との抗争である'''[[明友会事件]]'''を引き起こしたが、猛攻の前に僅か2週間たらずの[[8月23日]]に明友会は会長・姜 昌興以下、最高幹部15人の[[指詰め|指を詰め]][[手打ち]]を行い抗争は終結した。
===明友会事件の影響===
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