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[[1936年]]、[[大日本帝国]]領[[日本統治時代の台湾|台湾]]の[[新竹市]]にて、[[画家]]の[[李澤藩]]の息子として生まれる。母は[[幼稚園]]の園長であった。[[日本語]]推進政策の影響で、9歳までは日本語だけを話していた。[[第二次世界大戦]]の終戦後、[[中国語]]と[[台湾語]]を学ぶ。[[高等中学校]]時代に肺病を患い、この頃に[[マリ・キュリー]]の伝記の影響で化学者を志すようになった。
 
推薦で入学した[[台湾大学]]を経て[[国立清華大学]][[大学院]]に進み、[[濱口博]]の下で[[北投温泉]]の[[北投石]]の[[放射性同位体]]成分の研究を行い[[修士号]]を取得した。その後、[[カリフォルニア大学バークレー校]]でアルカリ原子の[[光励起]][[イオン化]]現象など[[光化学]]を研究し、[[1965年]]に[[博士号]]を取得している。
 
=== アメリカでの活動 ===
[[ハーバード大学]]を経て、[[シカゴ大学]][[助教授]]・[[教授]]を歴任した。[[イオンビーム]]と[[分子像]]の装置を開発し、[[分子線]]の交差衝突([[交差分子線]])における生成物の角度測定を行い、化学反応の過程を動力学的に研究した。[[1974年]]にカリフォルニア大学バークレー校の化学科教授に就任。[[化学反応]]素過程の研究により[[1986年]]に、台湾で初の[[ノーベル賞]]となる[[ノーベル化学賞]]を受賞した。同年、[[全米科学メダル]]も受賞。
 
=== 台湾での活動 ===