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[[日産自動車サッカー部]]の下部組織で本格的にサッカーを始める。その後、[[神奈川県立横須賀高等学校]]から[[東海大学]]へ進学。在学中はサッカー部自体は関東2部や神奈川県リーグに所属していたが、[[1995年]]に開催された[[ユニバーシアード]]福岡大会で[[ユニバーシアードサッカー競技|サッカー競技]]代表の中心選手として日本の大会初優勝に貢献し、プロからも注目を浴びる。卒業後は日産サッカー部の後身、Jリーグの横浜マリノス(現在の[[横浜F・マリノス]])への入団が内定していたが、メディカルチェックで[[頸椎]]に問題が発見されて不合格となり、1年間の浪人生活を過ごした。
 
[[1999年]]、Jリーグ2部(J2)の川崎フロンターレに入団。日本には珍しい長身の[[ミッドフィールダー|ボランチ]]として大きな期待を集め、背番号「6」を与えられて[[開幕戦]]から先発メンバーとして出場した。シーズン途中は負傷により離脱したが、終盤戦に復帰してチームの優勝に貢献した。
 
チームがJ1に昇格した[[2000年]]にもレギュラーとなったが、5月の練習中に膝の靱帯を損傷し離脱。[[5月3日]]の[[ジュビロ磐田|磐田]]戦でJリーグ初ゴールと初退場を記録した直後の負傷で、さらに他の負傷なども重なって、公式戦復帰には約2年半を要した。以降、運動量が比較的少なくて済み、屈強な身体を活かせるディフェンダー(センターバック)に転向したが、度重なる怪我に悩まされ、ほとんど公式戦に出場できない日々が続いた。しかし[[2004年]]に復活を遂げ、[[伊藤宏樹]]、[[箕輪義信]]と組んだ長身3バック(通称・川崎山脈)は守備の安定に大きく貢献した。