「ヴラチスラフ2世 (ボヘミア王)」の版間の差分

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それでもヴラチスラフ2世はハインリヒ4世と緊密な関係を保った。彼は[[ザクセン公国|ザクセン]]貴族との戦い([[ザクセン戦争 (ハインリヒ4世)|ザクセン戦争]])において最も重要なハインリヒ4世の支援者であり、ボヘミアはこの時代、[[シレジア|シュレージエン]]をめぐるポーランドとの国境紛争があったにも関わらず、ホムベルクの戦い([[1075年]])やフラルヒハイムの戦い([[1080年]])に参戦し、反乱を起こしたドイツ貴族を討伐し、[[イタリア]]に出兵した。[[1076年]]、ザクセン戦争に勝利したハインリヒ4世は、ヴラチスラフ2世にマイセン辺境伯領、[[ラウジッツ]]辺境伯領及びザクセンの[[オストマルク (ザクセン)|オストマルク]]地方を任せた。
 
ハインリヒ4世がこの両地域にさらにいくつかの小領域を加えてヴラチスラフ2世に与えたのは、[[バイエルン大公|バイエルン公国]]の一部を[[オーストリア]]辺境伯領とした埋め合わせであった。ヴラチスラフ2世はこの地域を差し押さえようと試みたが、[[1082年]][[5月12日]]にはマイルベルクでオーストリア辺境伯[[レオポルト2世 (オーストリア辺境伯)|レオポルト2世]]に勝利したにもかかわらず、この試みは成功しなかった。
 
1085年には、オーストリアにあった領土までも手放さなくてはならなくなったが、[[マインツ]]の王国会議でハインリヒ4世はボヘミアとポーランドの王位をヴラチスラフ2世に授けた。ポーランド王位がポーランド全域に対して実効性があったわけでは決してないが、この称号はシュレージエン地方が確実にボヘミア領に組み込まれたことを意味し、相当な威信を獲得することが出来たのである。[[1086年]][[6月15日]]、ヴラチスラフ2世はプラハで[[トリーア大司教]]エーギルベルトによって、ボヘミア王(ボヘミア王としてはヴラチスラフ1世)として戴冠された。