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== 概要 ==
「盒」の字は合わせ蓋のついた容器を意味する。[[アルミニウム|アルミ]]製で、現在「兵式」飯盒と呼ばれているものはキドニー(腎臓)型と云われる扁平な形をしている。これは各国の軍用飯盒に見られる形で、[[日本]]でも{{和暦|[[1932}}年]](昭和7年)まで[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]制式であった。この形状が採用された理由としては、以下のような説がある。
* 多数の飯盒でツルに棒を通して同時に炊飯するときに、全体の幅が狭くなって竈を小さくでき、[[薪]]を節約できて効率的であるから
* ベルトにつけて携行する際に体にフィットさせるため
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飯盒は[[ヨーロッパ]]起源と思われる。[[ドイツ]]では[[19世紀]]末から現在のスイス式と同様なものが使われていた。また、[[1931年]]制定のドイツの軍装に現在と同一のデザインのものを発見できる(ただし蓋をフライパンとして使うためのハンドル付きである)。また、『[[西部戦線異状なし]]』で主人公たちが食事を受け取る際に使用されているのを見ることができる。<!--しかし、戦国時代の真田幸村の使用した飯盒(漆塗りの木製なので弁当箱というべきかもしれない)は現在のアイマスク型の飯盒と同じデザインである。洋東西を問わずこのデザインに落ち着くのであろうか。それとも、漆器として海を渡り、直接火にかけられるように改良されて里帰りしたのだろうか。歴史のロマンを彷彿とする。-->
 
日本には、[[明治維新]]の後、[[徳川慶喜]]が自宅にて飯盒にて炊飯を楽しんだという記録があることから、洋式軍隊と共に導入されたと思われる。飯盒導入以前の兵食は[[糒]](ほしいい)や[[味噌|焼き味噌]]を携行する、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]とほとんど変わらないものであった。日本陸軍が飯盒を採用したのは、[[日清戦争]]の頃とされる。ただし、この当時の飯盒は[[漆塗|漆塗り]]や[[ホーロー]]で[[食器]]としての機能しか無かった。今日あるような調理機能を持つ飯盒が採用されるのは{{和暦|[[1890}}年]](明治23年)のことで、陸軍火砲製造所が製造したものであるという。これが洋式のデザインとなり、さらに米を炊くよう工夫された。
 
平時の兵営生活では炊事場で調理された食事を[[食堂]]で食べ、献立もご飯に[[味噌汁]]・[[漬物]]といった家庭とあまり変わらないものであった。飯盒による炊飯は煙や竈の数で敵に部隊の配置や勢力を暴露する危険があり、野戦の、しかも不可避な場合に限られた。戦場での野戦給食は、[[大隊]]単位で後方の野戦炊具で調理した食事を隷下の各部隊に配給するのが基本で、各兵士は配給された料理を飯盒で受け取った。また携行食として[[握り飯]]等が配給されることもあった。このような補給が受けられない場合のみ、前線で飯盒で炊飯したのである。
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飯盒炊爨には複数の兵士で行う組炊爨と兵士が各個に行う各個炊爨とがあった。組炊爨の場合は複数の飯盒をセットで用い一部で炊飯し残りで副食物を調理した。各個炊爨では、米を炊く際に中蓋へ副食物を入れて炊飯と同時に調理する方法が取られた。各個炊爨では副食物の火加減が不可能で不味くなることが避けられず、陸軍の調理マニュアルの「[[軍隊調理法]]」においては、一個の飯盒で炊飯と副食物の同時調理を行うことはやむを得ない場合を除き避け、なるべく複数の飯盒で組炊爨を行うよう指示している。
 
{{和暦|[[1932}}年]](昭和7年)に採用された九二式飯盒は内盒と外盒の入れ子式の構造になっており、両方を用いると一度に8合の米が炊け、また飯と味噌汁を同時に調理することもできるようになった。また、それまでの4合の飯盒では1日3食6合の調理に2回の炊爨が必要だったが、九二式飯盒では3食分の米が一度に炊爨可能になった。兵士が糧食を携行する場合、通常は布袋に入れて[[背嚢]]に入れるが、飯盒に生米を入れて携行する場合もあった。九二式飯盒は内盒と外盒を組み合わせて、一度に4食分である8合の米を携行する事を可能とした。[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])末期の{{和暦|[[1944}}年]](昭和19年)には、金属類の不足と生産工程簡略化のために、飯盒から中蓋が省略され、[[鋳物]]で作られるようになった。
 
=== 野外炊爨の方法 ===