「フレンスブルク政府」の版間の差分

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午後にボルマンから、特別の暗号解読認証を受けたドイツ海軍通信部隊経由で「総統は、ゲーリング元帥に換えてデーニッツ元帥を後継者と定められた。今後現状にて可能な全ての処置を取られたし」(1号電文)との電文を受けた。これにより、デーニッツはヒトラーが死んだか死を目前にしていると考えた。デーニッツは湖畔を歩き、副官ノイラートに「国家形態をどうするべきか」とつぶやいた。これは後に発表した「三本の柱をもつ憲法(静の元首、行動の政府主席、国民の意思を代表する議会)」の原案について口にした最初であった。デーニッツは「ヒトラーの後継者となることを義務とみなした。国民と軍隊に最良と信ずる道を歩むしかない。」「(軍人としての決意を翻すことが)仮にそれが自分のためには不名誉なものであっても」と副官ノイラートは後に回想している<ref>Wフランク「デーニッツと灰色狼」フジ出版 p491</ref> 。
 
5月1日午前0時、国内最大の実力者のヒムラーが重武装の親衛隊と共にデーニッツの元を訪れた。デーニッツが第1号電報を示すと、ヒムラーはデーニッツの地位を承認する代わりとして副大統領の地位を要求した。デーニッツは「私の作る極力非政治的な政府に政治的に傑出した者の席はないし、相手側から貴殿は交渉相手になりえない」と降伏交渉に重荷になることを説明し断った。ヒムラーは理解しなかっが、引き下がった。
 
5月1日午前にボルマンから5月2日、ヒトラー政権の最後の閣議がオイティンで行われ{{要出典|date=2010年8月}}、総統の死を受け正式に総辞職した内閣は、その居を翌日フレンスブルク郊外の[[ミュルヴィック]]にあった海軍学校へ移した。この際、[[アルベルト・シュペーア|シュペーア]]とヒムラーはともに[[バート・ブラムシュテット]]へ一時疎開している。
 
翌5月1日午前、デーニッツの元にボルマン署名の「遺書発効す。速やかにそちらに赴く予定。それまでは公表を控えられるべし」との第2号電報が入電。デーニッツは敵側の報道から知られること危惧してドイツ国民にヒトラーの戦死を伝えた。午後10時15分[[ハンブルク放送]]のラジオ演説でデーニッツは、「英、米、[[ボルシェヴィズム]]と戦い続ける意思」を改めて表明し、自らにヒトラーから国家元首と国防軍の最高司令官としての職責が託され「[[ドイツ国防軍]]を指揮し守り戦い続ける」「私の任務は押し寄せる共産主義たちによる破滅からドイツ人を救うことであり…来るべき苦難の時代に力の及ぶ限り耐えうる生活条件を作り出す努力をする…私を信頼してもらいたい、諸君の道すなわち私の道だから…」と国民の協力をもとめた。ただ、その地位は曖昧なために署名の肩書きは[[元帥_(ドイツ)|大提督]]とだけ記された。
 
5月1日午後、ゲッベルスとボルマンの共同署名になる第3号電報が到着し、デーニッツはここでヒトラーが自殺し、自身の大統領就任が発効したことを知った。この第3号電報ではヒトラーの遺言で首相にゲッベルス、党担当相(党首)にボルマン、外相に[[アルトゥル・ザイス=インクヴァルト|ザイス=インクヴァルト]]が指名されていることも通知されたが、当時ゲッベルスは総統地下壕に滞在しており、連絡をとることができなかった<ref>実際のゲッベルスは5月1日午後8時15分に総統官邸の中庭で自殺した。</ref>。