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[[Image:Gabrielbourbon.jpg|thumb|right|スペイン王子ガブリエル、[[アントン・ラファエル・メングス]]画]]
'''ガブリエル・デ・ボルボン・イ・サホニア'''('''Gabriel de Borbón y Sajonia''', [[1752年]][[5月12日]] - [[1788年]][[11月23日]])は、[[スペイン]]の王族。スペイン王[[カルロス3世 (スペイン王)|カルロス3世]]の四男。全名はガブリエル・アントニオ・フランシスコ・ハビエル・フアン・ネポムセノ・ホセ・セラフィン・パスクアル・サルバドール(Gabriel Antonio Francisco Javier Juan Nepomuceno José Serafin Pascual Salvador)。
 
== 生涯 ==
当時はナポリ王およびシチリア王であったカルロス3世と、その妃でポーランド選挙王および世襲のザクセン選帝侯[[アウグスト3世 (ポーランド王)|アウグスト3世]]の娘である[[マリア・アマリア・フォン・ザクセン|マリア・アマリア]]の間の四男として、[[ナポリ]]郊外の[[ポルティチ宮殿]]で生まれた。
 
ガブリエルは父が治めていた[[ナポリ王国]]で幼少期を過ごした。7歳のとき、ガブリエルは両親、次兄カルロス(後の[[カルロス4世 (スペイン王)|カルロス4世]])、姉[[マリア・ルドヴィカ・フォン・シュパーニエン|マリア・ルイサ]]、弟[[アントニオ・パスクアル・デ・ボルボン|アントニオ]]らと一緒に[[マドリード]]に移住した。伯父のスペイン王[[フェルナンド6世 (スペイン王)|フェルナンド6世]]が嗣子を持たないまま亡くなり、父カルロスがスペイン王位を継いだからである。ナポリには、知的障害のため王位継承者の地位を失った長兄のカラブリア公フェリペ、そして父から8歳でナポリ・シチリア王位を継承した三兄[[フェルディナンド1世 (両シチリア王)|フェルナンド(フェルディナンド)]]が残された。
 
ガブリエルはカルロス3世の息子たちの中で最も賢く働き者だった。非常に教養が深く、[[ガイウス・サッルスティウス・クリスプス|サッルスティウス]]および[[ガイウス・マエケナス|マエケナス]]の古典著作の素晴らしいスペイン語翻訳を残したことで有名である。またガブリエルは音楽家[[アントニオ・ソレール]]の才能ある弟子でもあり、エル・エスコリアル教会で師のソレールと一緒に2つのオルガンを使ってコンサートを催したこともある。1771年には建築家[[フアン・デ・ビャヌエバ]]に命じて、[[エル・エスコリアル修道院]]の敷地内に居館[[カシータ・デル・インファンテ]]を造らせた。
 
1785年、ガブリエルは従姉のポルトガル女王[[マリア1世 (ポルトガル女王)|マリア1世]]の娘[[マリア・アナ・ヴィトリア・デ・ブラガンサ|マリア・アナ・ヴィトリア]]と結婚し、間に3人の子供をもうけた。ガブリエルは妻子と一緒に居館カシータ・デル・インファンテで暮らしていたが、1788年11月2日、第三子カルロス・ホセを出産したばかりの妻ヴィトリアが19歳の若さで急死し、嬰児のカルロス・ホセも母と死別して一週間後の9日に亡くなった。そして、ガブリエル自身も同月23日に俄かに[[天然痘]]に罹患して死んだ。親子3人の遺骸はエル・エスコリアル修道院に埋葬された。父王カルロス3世は愛息子の死に大きな衝撃を受け、ガブリエルの死の翌月に世を去った。
 
ガブリエルと妻ヴィトリアの子供のうち長男[[ペドロ・カルロス・デ・ボルボーン|ペドロ・カルロス]]だけが生き延びたが、ペドロ・カルロスはポルトガルの母方の祖母のもとに引き取られて養育され、後にポルトガル王子の称号をも与えられた。
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