「ウグリチのドミトリー」の版間の差分

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== ドミトリーの死の影響 ==
[[ファイル:Saint Dmitriy icon.jpg|thumb|225px|ドミトリーを描いた18世紀の[[イコン]]]]
皇子の死後まもなく、[[ウグリチ]]では激しい暴動が起きた。暴動を起こした者たちは、ドミトリーは殺されたのであり、そして皇子の母親[[マリヤ・ナガヤ]]とその兄弟ミハイル・ナゴイはドミトリーの死に責任があると主張した。これを聞いて怒り狂った市民たちは、ドミトリーの「暗殺者」と見なされた者15人を[[リンチ]]にかけて殺した。リンチの犠牲者の中には、モスクワ政府に仕える地元の役人とドミトリーの遊び友達の1人もいた。後になって政府から派遣された[[ヴァシーリー・シュイスキー]]公爵を代表とする調査団は、証言者たちを徹底的に洗い上げ、皇子は自ら喉を刃物で傷つけたのが原因で死んだと結論した。政府の調査が終わると、ドミトリーの母マリヤ・ナガヤは皇子の死に過失があったとして修道女にさせられ、辺境の修道院に追放された。
 
しかし、シュイスキーは1605年に[[偽ドミトリー1世]]が出現すると自分の調査結果を覆し、皇子は暗殺者の手を逃れて生き延びていたと認めた。やがて偽ドミトリー1世の人気が落ち始めると、さらに再び前言を撤回して本物のドミトリーは[[ボリス・ゴドゥノフ]]に暗殺されたのだと主張し、1606年5月に偽ドミトリー1世を死に追いやってツァーリの座を奪い取った。シュイスキーは本物のドミトリーが死んでいることを実証するため、1606年6月3日に皇子の遺体をウグリチから[[モスクワ]]に運ばせた。この時、掘り起こされた皇子の遺体は腐敗していなかったとされ、この奇跡によってドミトリーは[[ロシア正教会]]に列聖された。彼は「'''敬虔なる皇子ウグリチのドミトリー'''({{lang|ru|благоверный царевич Димитрий Углицкий}})」として崇敬されている。