「アニェス・ド・フランス (東ローマ皇后)」の版間の差分

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== コムネノス朝の崩壊 ==
1183年、マリア・コムネナによって、マヌエル帝の従弟にあたる[[アンドロニコス1世コムネノス|アンドロニコス]]が呼び寄せられた。マヌエル帝が存命中に最も恐れた男で、彼自身、帝位への野望を隠さなかった。彼は、マリア・コムネナとその夫ラニエリを[[毒殺]]したと信じられている。彼は皇太后マリアを捕らえ、すぐに処刑した。アンドロニコスはアレクシオスと共同統治帝として、アンドロニコス1世コムネノスと名乗った。しかし、1183年の10月、彼は自身でアレクシオスを弓の弦で絞め殺した。アンナはわずか12歳だったのでため、皇位を正当化するならいとして彼女を皇后にするのには60歳のアンドロニコスも躊躇し、亡妻との子マヌエルに彼女を妻とするよう命じた。ところが、皇太后マリアの処刑にも反対した彼は、この命令も拒んだ。そのため、アンドロニコスはアニェスと結婚した。
 
アンドロニコスは、最初の妻との間に2男をもうけており、実の姪にあたる二人の愛妾(エウドキア・コムネナとテオドラ・コムネナ)と、皇太后マリアの同母妹フィリッパも過去に愛人関係にあった。元[[エルサレム王国|エルサレム]]王妃テオドラ・コムネナとの間には1男1女が生まれている。アレクシオスの死後、アンドロニコスの共同統治帝となった嫡子マヌエルには、このとき既に長子アレクシオス(のちの[[トレビゾンド帝国]]皇帝[[アレクシオス1世 (トレビゾンド皇帝)|アレクシオス1世]])が生まれていた。