「テノチティトラン」の版間の差分

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コルテスがテノチティトランを訪れたのは[[1519年]][[11月8日]]である。このときテノチティトランは20万人から30万人の人口を持ち、同時代の[[パリ]]や[[コンスタンティノープル|コンスタンティノポリス]](現在の[[イスタンブル]])と並ぶ世界有数の規模であったと考えられている。このときコルテスは神[[ケツァルコアトル]]の再来と信じられたため、ほとんど抵抗なくこの都市を征服することが出来た。[[コンキスタドーレス]]の中には[[ヴェネツィア]]やコンスタンティノポリスを訪れたことがある者もいたが、いままで訪れた都市の中ではテノチティトランが最も素晴らしいとみな証言している。
 
[[File:Templo Mayor 2007.JPG|thumb|神殿遺跡テンプロ・マヨール]]
数ヶ月に渡る抵抗ののち、コルテスが部下とともにテノチティトランを征服したのは[[1521年]][[8月13日]]である。街は完全に破壊され、切り出した石材を使ってその上にメキシコシティが築かれた。[[1913年]]、[[ソカロ広場]]から神殿の一部が発見されて掘り起こされ、野外博物館となっている。また、[[1978年]]にも神殿の跡地が発掘されて[[テンプロ・マヨール]](大寺院)と命名され、同様に博物館となっている。しかし、都心なのでこれ以上の発掘は望めないのが現である。
 
{{Commons&cat|Tenochtitlan|Tenochtitlan}}