「マジャパヒト王国」の版間の差分

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== 衰亡 ==
「{{仮リンク|王統史 (ジャワ)|en|Pararaton|label=王統史}}」によると、[[1376年]]に新しい王国({{lang|id|gunung baru}})が誕生した。[[明]]の[[:id:Berita Cina|Chinese chronicles中国年代記]]によると、[[1377年]]にジャワ島の二つの王国から朝貢が行なわれている。西の王国が{{lang|id|Wu-lao-po-wu}}、東の王国が{{lang|id|Wu-lao-wang-chieh}}と記録されている。西の王国は、{{lang|id|Bhra Prabu}}({{仮リンク|ハヤム・ウルク|en|Hayam Wuruk}})が治めていた。一方、東の王国は、[[:id:Dyah Wiyat|Rajadewi]]の夫の{{lang|id|Bhre Wengker}}({{lang|id|Wijayarajasa}})が治めていた。
 
[[1377年]]、[[ガジャ・マダ]]は既に死んでいたが、マジャパヒト王国は[[パレンバン]]に兵を送り、[[シュリーヴィジャヤ王国]]を滅亡させた。この時、最後の王子{{仮リンク|パラメスワラ (マラッカ王)|en|Parameswara (sultan)|label=パラメスワラ}}が脱出してマレー半島に逃れ、後に[[マラッカ王国]]を建国する。
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[[1478年]]、マジャパヒト王国でも{{仮リンク|クルタウィジャヤ|id|Kertawijaya}}が、息子の{{仮リンク|ブラウィジャヤ|id|Brawijaya|label=ブラウィジャヤ5世}}(シンハウィクラマワルダナ)の妃に[[チャンパ王国]]からムスリムの公主を迎え、内政でもイスラームへの[[改宗]]を容認した。
 
ブラウィジャヤ5世の息子{{仮リンク|ラデン・パタ|id|Raden Patah}}が[[ドゥマク王国]]を建国し、[[サムドラ・パサイ王国]]と友好関係を築き、[[ワリ・サンガ]]によるイスラム教布教によって急速に国力を増大した。
 
16世紀に始めに[[ドゥマク王国]]を中心としたイスラム勢力に滅ぼされたとされる。