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[[Image:Niklas_Reiser_001.jpg|160px|right|thumb|マリー・ド・ブルゴーニュ]]
[[Image:Maître_de_la_Légende_de_Sainte_Marie-Madeleine,_Sainte_Marie-Madeleine_(15–16ème_siècle).jpg|160px|thumb|マリー・ド・ブルゴーニュ]]
[[Image:Kaiser-maximilian-und-maria-von-burgund 1-920x1035.jpg|160px|thumb|庭園で語らうマクシミリアンとマリー]]
[[ファイル:Grafmarg.JPG|thumb|聖母教会のマリーの墓]]
'''マリー・ド・ブルゴーニュ'''(Marie de Bourgougne, [[1457年]][[2月13日]] - [[1482年]][[3月27日]])は、[[ヴァロワ=ブルゴーニュ家]]の[[ブルゴーニュ公国]]最後の君主、(名目上の)ブルゴーニュ女公(在位:[[1477年]] - [[1482年]])。後の[[神聖ローマ皇帝]]である[[ハプスブルク家]]の[[マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン1世]]の妻。領民たちからは「美しき姫君」「我らのお姫さま」と慕われていたという。
 
== 生涯 ==
[[シャルル (ブルゴーニュ公)|シャルル突進公]]と、その2番目の妻である[[ブルボン家|ブルボン公]][[シャルル1世 (ブルボン公)|シャルル1世]]の娘[[イザベル・ド・ブルボン]]の間に生まれる。シャルルの唯一の子であり、ヨーロッパ随一の経済力と成熟した文化を誇っていたブルゴーニュ公国の唯一の後継者として恵まれた少女時代を送った。しかし[[1477年]]、父シャルルが陣没し、ブルゴーニュ公国内では内乱が勃発した。フランスの侵攻と同時に、貴族がこの機会に権利の拡大を画策し始め、[[フランス王国|フランス]]王[[ルイ11世 (フランス王)|ルイ11世]]と組んだ貴族や大商人たちが、都市の自治の承認とフランス王太子シャルル(後の[[シャルル8世 (フランス王)|シャルル8世]])との結婚をマリーに迫った。マリーはこれを拒否して孤立し、幽閉同然の暮らしに追いやられた。義母[[マーガレット・オブ・ヨーク|マルグリット]]の助言を得たマリーは、父の定めた婚約者マクシミリアンに結婚(=救援)を要請し、こうして1477年8月19日、[[ヘント|ガン]]の聖バボ教会で挙式した。
 
政略結婚ではあったものの、マクシミリアンとは共に狩りに出かけるなど非常に仲睦まじい夫婦であったという。[[フェリペ1世 (カスティーリャ王)|フィリップ]]と[[マルグリット・ドートリッシュ|マルグリット]]の2子(次男フランソワは夭折)に恵まれるが、第4子を懐妊中の1482年3月、落馬事故で流産した上に大怪我を負い、それが原因で3週間後に死去する。