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'''山崎 烝'''(やまざき すすむ、[[天保]]4年([[1833年]])頃? - [[慶応]]4年[[1月13日 (旧暦)|1月13日]]([[1868年]][[2月6日]]))は、[[新選組]]隊士(諸士調役兼監察。[[摂津国]][[大坂]]出身([[山城国]]出身という説もある、生家は医家または薬種問屋とされる
 
== 新選組経歴 ==
[[摂津国]][[大坂]]出身([[山城国]]出身とも)で、生家は医家または薬種問屋とされる。
[[文久3年]]末頃、新撰組に入隊、[[元治元年]]頃から隊士の動向調査や情報探索の任についている。非常に有能であり、入隊後数ヶ月で上役を任され、後に隊内では異例の諸士調役・監察を掛け持ちするようになる。京・大阪に土地勘があり、道案内としてたびたび幹部達を大坂にひきつれていったという。また、大阪の金持ちの商人の事情にも通じていたため、新選組の中では重宝されたようだ。香取流の棒術にすぐれていたというが、実際に使用していたものは[[長巻]]であるとの説もある。性格は温順にして無口。背高く、色黒(色白という説も)な美男子だったという。
京都で隊士の診療を行っていた[[松本良順]]から医学を学び、「我は新選組の医者なり」と言って周囲を笑わせたという記録が良順の書に残っている。またそこには、「(近藤)勇の最も愛する者なりし」と記述されている。
 
[[文久]]3年([[1863年]]末頃組に入隊、[[元治]]年([[1864年]]頃から隊士の動向調査や情報探索の任についている。非常に有能であり、入隊後数ヶ月で上役を任され、後に隊内では異例の諸士調役・監察を掛け持ちするようになる。京・大阪に土地勘があり、道案内としてたびたび幹部達を大坂にひきつれていたという。また、大阪の金持ちの商人の事情にも通じていたためおり、新選組の中では重宝されていようだ。香取流の棒術にすぐれていたというがされ、実際に使用していたものは[[長巻]]であるとの説もある。性格は温順にして無口。背高く、色黒(色白という説も)な美男子だったという。京都で隊士の診療を行っていた[[松本良順]]から医学を学び、「我は新選組の医者なり」と言って周囲を笑わせたという記録が良順の書に残っている。またそこには、「(近藤)勇の最も愛する者なりし」と記述されている
元治元年6月の[[池田屋事件]]の時は諸士調役兼監察として[[島田魁]]らと長州藩士や[[尊攘]]過激派の探索にあたり、見事、尊攘過激派の一人、[[古高俊太郎]]宅・枡屋を突き止めている。枡屋は[[宮部鼎蔵]]ら大物志士の密会所となっていた。宮部の下僕・忠蔵を尾行し枡屋を突き止めたようだ。その結果、新選組は尊攘派の御所焼き討ち・天皇長州連れ去りの計画を未然に防ぐ事に成功した。しかし、この武功に対して、各隊士たちが報酬を受けているにも関わらず、山崎の名前が書かれていないため、[[子母沢寛]]や[[司馬遼太郎]]の創作との説もある。(ただし、報酬を受けている島田魁の日記には探索したメンバーに山崎の名前が入っている。)司馬の小説などでは、事件の際、山崎が薬屋に変装し事前に池田屋に潜入して探索し、浪士の刀を隠して、突入前には戸の錠を開けたことになっている。しかし、山崎からの確報があったならば最初から主力が池田屋に向かったはずであり、山崎の名は報奨者名簿にも無いことから、実際は屯所残留組だったと推定される。しかし創作における彼の活躍は、それだけ彼の監察・探索能力が高かったことが証明されている。
 
元治元年6月の[[池田屋事件]]の時は諸士調役兼監察として[[島田魁]]らと長州藩士や[[尊攘]]過激派の探索にあたり、見事、尊攘過激派の一人、[[古高俊太郎]]宅・枡屋を突き止めている。枡屋は[[宮部鼎蔵]]ら大物志士の密会所となっていた。おり、宮部の下僕・忠蔵を尾行し枡屋所在を突き止めたようだとされる。その結果、新選組は尊攘派の御所焼き討ち・天皇長州連れ去りの計画を未然に防ぐ事に成功した。しかし、この武功に対して、各隊士たちが報酬を受けているにも関わらず、山崎の名前が書かれていないため、小説家の[[子母沢寛]]や[[司馬遼太郎]]の創作との説もある(ただし、報酬を受けている島田魁の日記には探索したメンバーに山崎の名前が入っている司馬の小説などでは、事件の際、山崎が薬屋に変装し事前に池田屋に潜入して探索し、浪士の刀を隠して、突入前には戸の錠を開けたことになっている。しかし、山崎からの確報があったならば最初から主力が池田屋に向かったはずであり、山崎の名は報奨者名簿にも無いことから、実際は屯所残留組だったと推定される。しかし創作における彼の活躍は、それだけ彼の監察・探索能力が高かったことが証明されている
 
その後、[[禁門の変]]や[[第一次長州征討]]、[[第二次長州征討]]などの重要な戦いでも戦況の推移や状況報告に能力を発揮し、[[近藤勇]]や[[会津藩]]に正確な情報をもたらした。
 
[[慶応4年]]1(1868年)1月の[[鳥羽・伏見の戦い]]の最中、重傷を負う。1月13日[[江戸]]へ撤退の際、[[富士山 (軍艦)|富士山丸]]の船上で死亡、去。[[紀伊国|紀州]]沖で[[水葬]]されたとされている。その際、近藤勇は自身も肩の鉄砲傷がひどく寝込んでいたが、別れを告げるべく正装し代表として追悼の言葉を読んだという。近藤は山崎を上述の通り、信用し可愛がっていたようで、涙を流し、[[土方歳三]]に「山崎は良い奴だった あいつはこんなに大勢の人に見送られて幸せだ」ともらし、船長に深く頭を下げて礼を言ったという。ただ船に同乗していたであろう[[永倉新八]]や島田魁らが残した手記では、船上での山崎の死や水葬に関して何故か一切触れていない。一説には、鳥羽・伏見の戦いで銃で撃たれ死亡したともいわれ、陸上で埋葬された可能性もあるなど、その死ははっきりとせず謎に包まれている
一説には、鳥羽・伏見の戦いで銃で撃たれ死亡したともいわれ、陸上で埋葬された可能性もあるなど、その死ははっきりとせず謎に包まれている。
 
新選組隊士の[[山崎林五郎]](林新次郎)の従兄弟(義兄弟)で、林五郎の実家の家系図により、妻が居たとの話もあるが、そもそも林五郎と本当に血縁関係があったのかどうかも証明されておらず定かではない。子母澤寛の書物では[[林信太郎]]の従兄弟とされているが、おそらく林新次郎との混同と思われる。(山崎烝水葬説を明治のずっと後になって林信太郎が語ったと記されているが、その頃彼は既に亡くなっ死去していた) る)。また、山崎林五郎と山崎烝の父の名が同名にすぎず、他人との見解もある。
 
司馬遼太郎の小説『[[新選組血風録]]』では[[赤穂浪士]]から脱落した[[奥野定良|奥野将監]]の子孫として描かれているが、これは創作である。