「代々木忠」の版間の差分

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'''代々木 忠'''(よよぎ ただし、[[1938年]][[3月18日]] - )は、[[福岡県]][[小倉市]]北方仲町(現・[[北九州市]][[小倉南区]])出身の[[AV監督]]、[[映画監督]]、[[映画プロデューサー]]である。[[アテナ映像]]社長・アクトレス代表。本名は'''渡邊 輝男'''(わたなべ てるお)、愛称は'''ヨヨチュウ'''。[[ピンク映画]]時代初期には'''渡辺 忠'''(わたなべ ただし)名義で活動していた時期がある。
 
妻は、ピンク女優の[[真湖道代]]。
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[[福岡県立小倉南高等学校]]中退後、[[華道]]の世界に入り、[[生花店]]経営や[[芝居小屋]]の進行係などを転々とする。[[九州]]の[[暴力団]]にいた頃、自分の手下の若い衆が[[ストリップ]]興行絡みで関東の暴力団員を相手に集団暴力事件を起こし、その責任を問われて左手の小指を詰めたこともある<ref name="suzuki">鈴木義昭「エロビデオ界の首領 代々木忠のアウトロー人生に肉迫!」(『[[噂の眞相]]』[[1986年]]8月号)</ref>。それから約1年後、29歳の時に暴力団を辞めて放浪生活を送る中、神戸の[[田岡一雄]]に面倒を見てもらったこともあるという<ref name="suzuki"></ref>。
 
やがて、[[谷ナオミ]]のデビューを機に映画の世界に惹かれ、[[1963年]]、ピンク映画の[[ワールド映画]]に助監督として入社。[[1972年]]、プリマ企画の製作担当常務取締役として、渡辺忠名義でプロデュースした「女高生芸者」(梅沢薫監督)が猥褻容疑で摘発・起訴される(後、二審で無罪判決が確定)。
 
同年8月、「ある少女の手記・快感」で監督デビュー。この時、代々木忠という名前を使ったのは、「女高生芸者」の裁判が続いていたため、同じ名前は使わない方がいいとの弁護士の助言による(当時、[[代々木]]4丁目に住んでいたことにちなむ)。スケバンシリーズでヒットを飛ばす。[[ピンク映画]]監督としてのキャリアを経て、[[1976年]]、[[にっかつ]]の下請会社'''ワタナベプロダクション'''を設立。プロデューサーとして、[[山本晋也]]に痴漢シリーズや未亡人シリーズを撮らせ、成功する。
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[[1982年]]8月以降、ドキュメント・ザ・オナニーシリーズで成功。以後、[[性感マッサージ]]シリーズやいんらんパフォーマンスシリーズ、[[チャネリング]]FUCKシリーズ、『多重人格 そして性』など数多くの作品を世に送り出した。[[AV男優]]の[[加藤鷹]]などから、師と仰がれている。
 
半生を追ったドキュメンタリー『YOYOCHU Sex SEXと代々木忠の世界』(石岡正人監督)が2010年11月1日イタリアで開催された第5回ローマ国際映画祭EXTRA部門に出品され、現地入りした代々木監督と石岡監督がレッドカーペットを歩いた。<ref> [http://www.cinematoday.jp/page/N0027471 AV界の巨匠・代々木忠のドキュメンタリー、ローマ映画祭に正式出品!]</ref>
 
過去に交際していた女性の影響で[[バグワン・シュリ・ラジニーシ]]に傾倒し、事務所の社長室の壁にラジニーシの言葉を額に入れて懸けている<ref name="suzuki"></ref>他、毎朝自宅[[ベランダ]]での[[瞑想]]を日課とし<ref name="suzuki"></ref>、コラムで[[グルジェフ]]の水素論に言及するなど<ref>[http://www.athenaeizou.com/athena-diary/post_1137.html 週刊代々木忠 「H48」 2009年04月17日(金)]</ref>、[[オカルティズム]]への関心が深い。
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*[http://blog.livedoor.jp/yoyochumovie/ 映画『YOYOCHU SEXと代々木忠の世界』公式ブログ]
*[http://www.news-postseven.com/archives/20110301_13773.html NEWSポストセブン|代々木忠監督 『仁義なき戦い・代理戦争』のモデルだった]
* {{jmdb name|p0298530|渡辺忠}}
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