「タケミカヅチ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m 切っ先/-
剣は小浜の砂浜でなく波に突き立てた(訂正)
13行目:
 
===葦原中国平定===
「[[出雲]]の国譲り」の段においては[[伊都之尾羽張剣|伊都之尾羽張(イツノオハバリ)]]の子と記述されるが<ref name=kojiki-kuniyuzuri>{{Harvnb|武田|1996}}『古事記』p. 60/現代訳 p.244</ref>、前述どおり伊都之尾羽張は天之尾羽張の別名である。[[アマテラス]]は、タケミカヅチかその父イツノオハバリを下界の平定に派遣したいと所望したが、建御雷が[[鳥之石楠船神|天鳥船]](アメノトリフネ)とともに降臨する運びとなる<ref name=kojiki-kuniyuzuri/>。出雲の伊耶佐小浜(いざさのおはま)に降り立ったタケミカヅチは、[[十束剣|十掬の剣(とつかのつるぎ)]]を砂浜n波の上に逆さに突き立てて、なんとその切っ先の上に胡坐をかいて、[[大国主]](オオクニヌシノカミ)に対して国譲りの談判をおこなった。大国主は、国を朝廷に譲るか否かを子らに託した。子のひとり[[事代主]]は、すんなり服従した。もう一人、[[建御名方神|建御名方神(タケミナカタ)]]([[諏訪]]の<ref name=heibonsha-kashima/>[[諏訪神社]]上社の祭神<ref name=kojiki-kuniyuzuri/>)は、建御雷に力比べをもちかけ、手づかみの試合で一捻りにされて恐懼して遁走し、国譲りがなった<ref name=heibonsha-takem/>。このときの建御名方神との戦いは[[相撲]]の起源とされている<ref>{{citation|和書|author-link=彦山光三|last=彦山|first=光三 (Mitsuzō Hikoyama)|volume=12|title=すもう|page=597|work=世界百科事典(Sekai hyakka jiten)|publisher=Heibonsha|origyear=1968|year=1969}}</ref>。
 
『日本書紀』では[[葦原中国平定]]の段で下界に降される二柱は、武甕槌と[[経津主神|フツヌシ]]である。(ちなみに、この武甕槌は鹿島神社の主神、フツヌシは[[香取神社]]の主神となっている<ref name=heibonsha-kashima/>。上代において、関東・東北の平定は、この二大軍神の加護に祈祷して行われたので、この地方にはこれらの神の分社が多く建立する<ref name=heibonsha-kashima/>。)『日本書紀』によれば、この二柱がやはり出雲の五十田狭小汀(いたさのおはま)に降り立って、[[十束剣|十握の剣(とつかのつるぎ)]]を砂に突き立て、大己貴命(おおあなむち、オオクニヌシのこと)に国譲りをせまる。タケミナカタとの力比べの説話は欠落するが、結局、大己貴命は自分の征服に役立てた広矛を献上して恭順の意を示す<ref>{{Harvnb|宇治谷|1988}} 『日本書紀』上 p.56-8 </ref>。ところが、二神の前で大己貴命がふたたび懐疑心を示した(翻意した?)ため、[[天つ神]]は、国を皇孫に任せる見返りに、立派な宮を住まいとして建てるとして大己貴命を説得した<ref>{{Harvnb|宇治谷|1988}} 『日本書紀』上 p.64-6 </ref>。