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| 子 ='''[[浅野長純|長純]]'''}}
 
'''浅野 長広'''(あさの ながひろ)は、[[江戸時代]]前期から中期の[[旗本]]。[[元禄赤穂事件]]で有名な[[浅野長矩]]の弟。[[幼名]]は'''戌千代'''(いぬちよ)。通称は'''[[大学寮|大学]]'''(だいがく)
 
== 生涯 ==
[[寛文]]10年([[1670年]])10月29日、[[赤穂藩]]主・[[浅野長友]]の次男として[[江戸]]で生まれる。母は[[内藤忠政]]([[鳥羽藩]]主)の娘・[[内藤波知|波知]]。[[大垣藩]]主・[[戸田氏定]]、[[岡部藩]]主・[[安部信峯]]は母方の従弟にあたる(母同士が姉妹)。15歳のときに兄・[[浅野長矩]]とともに[[山鹿素行]]の門下に入り、兵学などを学んだ。
 
[[元禄]]7年([[1694年]])8月21日、兄・長矩から播磨国[[赤穂郡]]の[[新田]]3,000石を分与されて[[旗本]]の[[旗本寄合席|寄合]](3,000石以上の旗本で無役の者)に列し、[[江戸幕府|幕府]]から木挽町に屋敷を賜った。同時に長矩の養子となり、同年9月1日、初めて将軍[[徳川綱吉]]に拝謁した。
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元禄13年([[1700年]])11月14日には[[菰野藩]]主・[[土方雄豊]]の養女(雄豊の早世した嫡子[[土方豊高]]の娘)を正室に迎えた。この縁組の背景には長矩が[[天和 (日本)|天和]]3年([[1683年]])に[[勅使]][[饗応役]]を命じられた際に雄豊が院使饗応役を務めていたことが関係していると思われる。
 
元禄14年([[1701年]])3月14日、兄・長矩が[[江戸城]]において[[高家 (江戸時代)|高家]]肝煎[[吉良義央]]に刃傷に及んで切腹となると、長広や広島浅野本家、従弟の戸田氏定や安部信峯なども連座。また3,000石の所領も召し上げられた。その後、長矩の遺臣[[大石良雄]]らは浅野家再興運動を行っていたが、翌年7月18日に広島浅野宗家にお預けとされる。大石らによる吉良邸討ち入りがあったのはそれから5ヶ月後の事であった([[元禄赤穂事件]])。なお長広自身は、お預かり中に宗家から1,000俵が支給された。
 
[[宝永]]6年([[1709年]])8月20日、将軍綱吉死去に伴う大赦で許され、宝永7年([[1710年]])9月16日には新将軍[[徳川家宣]]に拝謁して改めて[[安房国]][[朝夷郡]]・[[平郡]]に500石の所領を賜り旗本に復した。またこれとは別に浅野宗家からも300石を支給され続けた。ここに赤穂浅野家は旗本ながら御家再興を果たした。享保9年([[1724年]])7月19日、家督を嫡男の長純に譲って隠居した。
 
[[享保]]19年([[1734年]])6月20日に65歳で没し、死去。兄や四十七赤穂浪士と同じ高輪[[泉岳寺]]に葬られた。また四谷の妙行寺には室の墓があり、法名は蓮光院殿妙澄日清大姉。
 
== 関連項目 ==