「安積澹泊」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
1行目:
'''安積 澹泊'''(あさか たんぱく、[[明暦]]2年[[11月13日 (旧暦)|11月13日]]([[1656年]][[12月28日]]) - [[元文]]2年[[12月10日 (旧暦)|12月10日]]([[1738年]][[1月29日]]))は、[[江戸時代]]中期の[[儒教|儒学者]]である。[[諱]]は覚、字は子先、幼名は彦六、通称は覚兵衛、号は澹泊、澹泊斎、晩年は老圃、老圃常山、老牛など。[[彰考館]]総裁(史館総裁)であった。物語『[[水戸黄門]]』に登場する[[渥美格之進]]のモデルであるとされている。
 
== 生涯 ==
[[明暦]]2年、水戸に生まれる。祖父正信は小笠原家に仕えて軍功あり、後に[[水戸藩]]初代[[徳川頼房|頼房]]に仕え禄400石であったが、父の貞吉は多病でこの禄を辞退し、寄合組となった。貞吉は儒学を好み詩文をよくし「希斎」と号した。
 
[[寛文]]5年([[1665年]])9月、澹泊が10歳の頃、2代藩主[[徳川光圀]]が[[朱舜水]]をともなって水戸に帰国したのを機に、父・貞吉が光圀に願い出て[[朱舜水]]に入門させた。このとき澹泊は10歳。同年暮れには江戸に出て朱舜水のもと学んだが、翌67([[1666年]])7月に父・貞吉亡くなっ死去したので水戸に帰り、家督を継いで寄合組となった。翌7年([[寛文1667年]]7年に朱舜水が水戸を訪れると再び教えを受け、翌8([[1668年]])朱舜水に従って江戸へ出た。しかし[[寛文]]10年([[1670年]])春には痘瘡を病んで水戸に帰国しので、澹泊が朱舜水のもとで学んだのは3年ほどであった。とはいえが、朱舜水は「日本に来て句読を授けた者は多いが、よくこれを暗記し、理解したのは彦六だけだ」と言ったという。光圀も澹泊の好学を賞して金3両を図書費として与えた。
 
水戸へ帰った澹泊は同年200石で大番組を命じられ、[[延宝]]3年([[1675年]])小納戸役、同7年に唐物奉行を兼ね、[[天和 (日本)|天和]]3年([[1683年]])、28歳のときに[[彰考館]]入りし史館編修に任じられた。28歳のときである
 
[[元禄]]2年(1689)([[1689年]])、吉弘元常・[[佐々宗淳]]両総裁とともに修史義例の作成に関与。[[元禄]]5年([[1692年]])には100石を加えられて300石となり、[[元禄]]6年([[1693年]])6月には死した[[鵜飼錬斎]]の後任として史館総裁に就任した(当時の総裁は3人で他2人は佐々宗淳・[[中村顧言]]。元禄9年([[1696年]])には佐々らとともに「重修紀伝義例」を作成して修史の方針を明確にし、また「神功皇后論」を著して皇位継承についての所信を述べた
 
[[元禄]]13年(1700([[1700]])に光圀が死去すると、翌14年([[1701年]])、3代藩主[[徳川綱條]]の命により、中村顧言・栗山潜鋒・酒泉竹軒とともに『義公行実』を編集。のち[[享保]]8年(1723)([[1723年]])に、4代藩主[[徳川宗堯]]の命により、さらにこれを修訂し『常山文集』の付録として印刷した。また[[享保]]9年([[1724年]])に、『義公行実』の付録として『西山遺事』を著している。元禄14年、総裁の職は元のままに小姓頭に昇進。栗山潜鋒らとともに紀伝の稿本全般を点検、加除訂正を行った。中でも[[宝永]]年間の筆削活動は目覚ましく、そのためほとんど原型を止めなくなった箇所も多いという
[[元禄]]9年には佐々・中村らとともに「重修紀伝義例」を作成して修史の方針を明確にし、また「神功皇后論」を著して皇位継承についての所信を述べた。
 
[[正徳 (日本)|正徳]]4年([[1714年]])の総裁を辞任したが、その後も彰考館にあった。享保元年([[1716年]])からは「大日本史論賛」の執筆を行う(同5年に完成)。論賛は史伝を記述した末に記述者が加える論評の事である。なお、後代削除されたため、完成した現在の『大日本史』にはない。享保6年([[1721年]])新番頭列、同7年新番頭に任じられたがいずれも史館勤務は元の通りであった。[[享保]]12年からは[[徳川家康]]の伝記である『烈祖成績』の編集を担当(同17年完成)。享保18年(1733年)致仕。致士後も十人扶持を与えられて史館の業務に関わることを許されており、死の直前まで紀伝稿本の校訂作業を続けた。
[[元禄]]13年(1700年)に光圀が没すると、翌14年、3代藩主[[徳川綱條]]の命により、中村顧言・栗山潜鋒・酒泉竹軒とともに『義公行実』を編集。のち[[享保]]8年(1723)に、4代藩主[[徳川宗堯]]の命により、さらにこれを修訂し『常山文集』の付録として印刷した。また[[享保]]9年に、『義公行実』の付録として『西山遺事』を著している。
 
元文2年(1737年)83歳で水戸梅香の自宅にて死去した。[[明治]]35年([[1902年]])11月8日、明治政府により贈正四位。
[[元禄]]14年、総裁の職は元のままに小姓頭に昇進。栗山潜鋒らとともに紀伝の稿本全般を点検、加除訂正を行った。中でも[[宝永]]年間の筆削活動は目覚ましく、そのためほとんど原型を止めなくなった箇所も多いという。
 
[[正徳 (日本)|正徳]]4年([[1714年]])の総裁辞任したが、その後も彰考館にあった。<br />
[[享保]]元年(1716)からは「大日本史論賛」の執筆を行う(同5年に完成)。論賛は史伝を記述した末に記述者が加える論評の事である。なお、後代削除されたため、完成した現在の『大日本史』にはない。
 
[[享保]]6年新番頭列、同7年新番頭に任じられたがいずれも史館勤務は元の通りであった。[[享保]]12年からは[[徳川家康]]の伝記である『烈祖成績』の編集を担当(同17年完成)。享保18年(1733年)致仕。致士後も十人扶持を与えられて史館の業務に関わることを許されており、死の直前まで紀伝稿本の校訂作業を続けた。
 
[[元文]]2年(1737)83歳で水戸梅香の自宅にて没した。
 
私的な面では菊づくりを趣味としていたという。
 
[[明治]]35年([[1902年]])11月8日、明治政府により贈正四位。
 
== 学説・著書等 ==