「ヘーチマン国家」の版間の差分

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=== ロシア・ツァーリ国の保護 ===
{{Main|ペラヤースラウ会議 (1654年)}}
 
フメリニツキーはポーランドからの自治を勝ち取ったものの、周囲を敵に囲まれており、軍事・外交の面で極めて難しい状況にあった。反乱開始当初に同盟を結んでいた[[クリミア・ハン国]]は後にポーランド側に寝返ったため、フメリニツキーは同盟国を求めて一時は[[オスマン帝国]]の宗主権下に入っている。また[[モルダヴィア公国]]、[[スウェーデン]]、[[トランシルヴァニア公国]]、[[ロシア・ツァーリ国]]との同盟も求めようとした。[[1654年]]にはロシア・ツァーリ国と'''[[ペレヤースラウ条約]]'''(ペレヤスラフ条約)を結んでその保護下に入った。同じ正教徒であるモスクワとの同盟は、イスラム教徒のオスマン帝国との同盟よりも当時のウクライナでは歓迎されたが、その後は長年に亙るモスクワによるウクライナ支配をも齎してしまった側面がある。